『政治を語る言葉―札幌時計台レッスン』出版のお知らせ
政治を語る言葉―札幌時計台レッスン
政治を語る言葉―札幌時計台レッスン
山口 二郎 (著), 中島 岳志 (著), 辛 淑玉 (著), 香山 リカ (著), 佐藤 優 (著)

 
私たちは、日々、政治の問題に向き合わざるをえないのに、政治への関心を外に表すことは妙に難しい。でも、何か前向きになれるきっかけやヒントが得られれば、私たちはもっと本気で考え、語り合うことができるのではないか・・・・・・。そして、二〇〇七年八月、学生・ボランティアスタッフの手に支えられ、市民の学びの場「フォーラムin札幌時計台」がスタートした。
(デモスノルテ 田中みどり)
23:33 | 山口二郎 | 著作 | comments(0) | trackbacks(0)
通常国会の教訓と政権交代への課題
 最後は何とも締まらない形で終わった通常国会だが、この半年の国会を振り返り、これからの政党政治の課題について考えてみたい。

 参議院における野党優位にもかかわらず、民主党には政府与党を攻めきれなかったという欲求不満が残ったであろう。参議院における内閣への問責決議も、時機を逸してしまい、空振りに終わってしまった。揮発油税暫定税率などの日切れ法案を期限切れに追い込むことには成功したが、衆議院での再可決による法案成立を阻むことはできなかった。国会同意人事や日切れ法案の処理については政府の不手際を印象づけることができ、福田政権の支持率を低下させることはできた。しかし、福田首相の不人気状態には、世論も首相自身も慣れてしまい、政局は緊張感を欠いている。

 参議院での野党優位がもたらした成果としては、次の点が上げられる。野党の法案審議における影響力が飛躍的に高まったことにより、行政府から野党へ提供される情報も格段に増えた。その結果、行政のムダや政策の失敗に関する国会論議が深まった。たとえば、道路予算の使い方をめぐる暗部を効果的に追及したことは有意義であった

 また、政策の可塑性という感覚を国民が経験することができたのも、参議院における野党優位のおかげである。政策の評価は別として、国会の多数派を入れ替えることによって法律を変えることができ、それがたとえばガソリン価格の低下という形で生活に影響を及ぼすということを人々は発見した。選挙の結果別の政策を造り出すことができるという経験をすることは、政権交代のある政党政治にとって不可欠の前提となる。

 しかし、福田政権の逃げ切りを許したことを、民主党は大いに反省しなければならない。最大の失敗は、参議院で審議を通して政府を追及することがなかった点である。既に述べたように、衆議院段階では鋭い追及ができても、衆議院と参議院の連携が欠けていた。また、一旦参議院で実体的な審議を始めてしまえば、質疑時間の消化と共に採決という手順になり、参議院で否決しても衆議院に回付され、すぐに再議決されるという事態を、民主党は最も恐れていた。そうなると、日切れ法案を期限切れに追い込むことができないからである。したがって、予算や法案の審議が参議院に舞台を移すと、多数派であるはずの野党が音無になってしまうという逆説的な現象が起こった。この点は、野党による政府への強力な追及を期待した世論を裏切った。

 従来の永田町の常識では、参議院での審議時間には相場というものがあり、それを消化すると採決をするということになっている。しかし、野党が追及を工夫し、世論の支持を得るならば、審議をほどほどで切り上げて採決するという与党の行動を阻止することもできたはずである。実際、この通常国会には、守屋武昌前防衛事務次官の汚職、イージス艦の事故、二〇〇七年度末までの年金記録の照合という政府公約の破綻、道路予算におけるムダと腐敗など、政府を攻める材料は山ほどあったはずである。これらをまともに議論していたら、審議時間が足りたはずはない。また、参議院で多数をもっているのだから、国会法一〇四条に規定されている資料提出要求権をフルに活用し、政府が都合の悪いことを隠そうとしている姿勢をあぶり出すこともできたはずである。証人喚問や参考人招致も、脇を固めてどうしても必要であることを説得できれば、仮に与党が反対しても、多数決で押し切り、世論の支持を得ることも可能だったろう。

 民主党の国会戦略においては、政局混乱主義と、政策論争主義の整理がついていなかった。この二つは決して矛盾するものではなく、有能な野党には両方が必要なのである。野党として政府与党を追い込むには、政局の混乱を引き起こすという戦術も否定すべきではない。しかし、日切れ法案や国会同意人事をテコに政局を混乱させるという戦術が限界に達したならば、正面から論戦を挑んで、理詰めで政府与党を追いつめるという両面作戦が必要である。福田首相が揮発油税の一般財源化を公約しながら、特定財源制度を十年継続するという特別措置法を多数で押し切るという矛盾を犯しただけに、野党による論理的な追及をもっと見たかったと悔やまれる。

 サミットが無事に終わっても、福田政権を浮揚する材料とまではならないであろう。自民党は甲羅に引っ込んだ亀のように、解散を先送りするに違いない。また、九月の民主党代表選挙をにらみ、痺れを切らした民主党の内紛を期待するであろう。総選挙まで一年も待たされると思うようでは、民主党に政権をとれるはずはない。

 思えば、衆議院で宮沢内閣不信任案が可決されてちょうど一五年になる。一五年といえば、ペリーが浦賀に来航してから明治維新まで、敗戦から六〇年安保までの時間である。あれから日本の政治は、政権可能な政党政治、政策本位の政党政治を目指しながら、長い長い回り道を続けてきた。それを思えば一年などあっという間である。

 野党陣営にいる政治家は、制度疲労の自民党政権を今日まで生きながらえさせたことに対する徹底的な反省と、自らの無力さを噛み締めることから、これから一年間の政治行動を考えなければならない。政治においては、何が最優先の目標であるかを見据えることが何よりも重要である。政党再編など、落城寸前の自民党が発する悪魔の囁きである。

 国会が閉じれば、野党の出番は少なくなる。しかし、相手が持久戦を決め込むなら、野党も目立とうとして焦るべきではない。未来に希望を失った若者が殺人を犯し、『蟹工船』が売れる時代である。雇用や社会保障の骨組みを立て直し、国民に未来への希望を示すために、地道な政策論が必要な時である。(週刊東洋経済6月28日号)
00:00 | 山口二郎 | 週刊東洋経済 政治フォーカス | comments(1) | trackbacks(0)
持続可能な社会をどう作るか
 サミットの主要なテーマは地球環境の持続可能性である。もちろん、生物としての人類が生き残るためには、地球環境を守ることは大前提である。それと同時に、サミットを契機に社会の持続可能性にも目を向ける必要がある。持続不可能な社会システムを続けることは地球の持続可能性を破壊し、逆に、持続可能な社会システムを作れるならば地球の持続可能性も維持できるという関係が存在するからである。

 一九九〇年前後に冷戦が終わり、資本主義体制が世界を制覇すると共に、市場における利益追求を放任する新自由主義という理念が世界の経済ルールとなった。規制緩和や民営化を基調とする日本の構造改革もその一環である。これらの政策は一面で経済の活性化をもたらしたのかも知れないが、様々な歪みを生み出し、それが社会の持続可能性を脅かしているのである。これは日本のみならず、先進国共通の問題である。

 新自由主義には、あらゆる価値を金銭という単一の尺度で計るという単純性と、今この瞬間に最大の利益を上げようとするという近視眼性という二つの大きな落とし穴がある。営利追求を第一に考えるならば、お金で買えないものはないという価値観のとりこになる。言うまでもなく、人間の生命や尊厳は金では買えない価値だが、企業が業績を上げるためサービス残業が横行し過労死が頻発する。長い目で見れば、労働者に家族を養えるだけの経済的、時間的余裕を与えることが社会の持続に望ましいはずだが、個別の企業が当期の利益を優先させれば、安上がりの非正規雇用を増やすという結果になる。

 先日、東京秋葉原で将来への希望を失ったと称する若者が大量殺人を犯し、社会を震撼させた。殺人事件そのものには同情の余地はないにしても、人間をもの同然に扱う労働の世界の変質が、未来に希望を持てない若者を大量に生み出していることは事実である。コスト削減の論理を極端に推し進めると、どこかで社会にしわ寄せが出ることをあの事件は教えている。

 グローバル化といえば、この十数年、市場を解放する方向での政策の標準化が進んだ。グローバル・スタンダードという掛け声の下で、規制緩和や民営化など小さな政府を求める動きが各国で進んだ。しかし、投機の行き過ぎによる金融不安や食料、エネルギー価格の高騰は世界的な問題となっている。いまや、人間の生活と尊厳を守るために市場における利益追求に歯止めをかけるという方向でのグローバル化が必要となった。

 こうした関心による政策的取り組みは、ヨーロッパではある程度の蓄積を持っている。我々にとって特に参考になるのは、「社会的排除−包摂」という概念である。人間を使い捨てにする社会では、十分な賃金を得られないワーキングプアや医療や介護を受けられない高齢者が排除されていく。しかし、社会的排除がまかり通るような社会は、みなにとっても住みやすい社会ではない。そこで、人間が誇りと尊厳を持って生きられるように、就労支援、育児支援などの社会的な土台を整備する必要がある。これが社会的包摂と呼ばれる政策である。

 環境制約のみならず、社会的観点からも、資本主義経済の奔流に対する反省の念は広がりつつある。日本では、小林多喜二の『蟹工船』が読まれるご時勢となった。とはいえ、市場を否定し、社会主義体制を取ることは、選択肢にはならない。市場を前提としつつ、人間の尊厳を守るという観点から、これにどのようなルールを課するかを議論することこそ、世界の指導者の役割である。格差社会がブームとなったことには十分理由もあるし、世界的な広がりもある。このブームを一過性のものに終わらせないためにも、人間の顔をした資本主義経済とはどんなものか、サミットの場で議論を深めてもらいたい。(北海道新聞6月27日夕刊)
00:00 | 山口二郎 | 北海道新聞 | comments(0) | trackbacks(0)
終盤国会をどう闘うか
 道路関連法案が衆議院で再可決されると、会期を1カ月近く残しているにもかかわらず、国会は事実上終わったような雰囲気が漂っている。内閣支持率は20%を割っているというのに、超不人気内閣のもとで政局は安定するという奇妙な光景である。

 自民党においては、解散を先送りしたいという一点で、不人気首相でも求心力が高まる。また、9月の民主党代表選挙まで福田政権が持ちこたえれば、敵の方で足並みの乱れを起こすという期待もある。守勢に回る側が政治の停滞を作り出すのは当然である。

 問題は、野党、特に民主党が攻撃の姿勢を続けられない点にある。いささか気は早いが、この通常国会の総括をしておきたい。

 日切れ法案の時間切れで政府与党をあわてさせることはできたものの、全体として野党は参議院での数の優位を有意義に活用することはできなかった。既に本欄でも述べたように、参議院での野党有意の結果、行政府から野党に対して出される情報の量は飛躍的に増えた。衆議院での予算審議では、道路問題を中心にそうした成果が現れて、野党の追及は世論を喚起することに成功した。

 しかし、予算と関連法案が参議院に移ると、議論はとたんに低調になった。与党が衆議院で三分の二の多数を持っているため、参議院で何らかの意思表示をすれば、衆議院で再議決されることを民主党は恐れていた。参議院における民主党の姿勢は、あまりに消極的で、政府与党の足を引っ張ることを主眼としていたといわれても仕方ない。数の優位を生かした野党主導の国会論戦は、見られなかった。

 最大の失敗は、民主党において衆参の連携が取れなかった点にある。衆議院では行政の腐敗を追及して資料提出や参考人招致を要求しても、野党の主張は通らない。参議院ならばその種の武器が実際に使える。衆議院で攻め切れなかった論点を参議院でさらに突っ込むという連携が存在すれば、中身のある審議を行いつつ、政府与党を追い詰めることができたはずである。参議院の国政調査権の発動に対して、政府が非協力的な態度を取るならば、それこそ問責の正当な理由となる。総じて、参議院民主党には法案審議と政局をつなげて指示を出す司令塔が存在しなかったように思える。

 道路財源特例法の処理についても、工夫の余地はあった。与党が衆議院で再議決する前に、2009年度からの揮発油税の一般財源化という政府方針を具体化するような法案修正を野党側から提案していたら、政府与党をもっと揺さぶることができていたであろう。

 国会終盤では、後期高齢者医療制度が大きな争点となりそうである。これだけではなく、年金記録の照合を達成できなかったという公約違反もある。道路問題が一応の決着を見たからといって、政府追及の手を緩めてはならない。

 前回の本欄でも述べたように、問責決議は直接内閣を倒す武器ではない。しかし、国民からの信任を失っていることを鮮明にするという政治的な意味はある。サミットのホストという役割で首相の求心力を回復しようとする動きに対しては、問責決議も有効な対抗手段となる。野党の戦意が問われているのである。(週刊金曜日6月27日号)
00:00 | 山口二郎 | 週刊金曜日 政治コラム | comments(0) | trackbacks(0)
サミットの成功とは何か
 洞爺湖サミットまで半月となり、札幌ではサミットを成功させようという掲示も目に付くようになった。そもそもサミットが成功するとはどういうことか、誰からも説明を聞いたことはない。平穏無事に終わることだけが目的だとすれば、最初からそんな会議は開かないほうがよい。
 世界の首脳が話し合い、取り組むべき問題は最近急増している。一昔前はグローバル化といえば能天気な規制緩和論を意味していたが、いまは市場の不安定さ自体がグローバルな課題となっている。アメリカ発の金融不安、資源や食料の高騰など、投機の行き過ぎが人々の生活を脅かしている。人間の生活を守るという観点から、経済に関する新たなルールを作ることこそ、世界の首脳の任務である。
 福田首相が議長として新しい世界のルールを作り出す動きをはじめることができれば、それこそサミットは成功したことになる。どうせ何もできないと悲観的なことは言いたくない。福田首相はクラスター爆弾の禁止条約の締結に見られたように、外交には熱意を持っているようである。政権支持率を上げるなどという邪心を捨てて、何か1つ世界の未来に向けた問題提起をしてほしい。この点については、OBサミットで活躍した父親の福田赳夫氏を見習ってもらいたい。(東京新聞6月23日)

00:00 | 山口二郎 | 東京新聞 本音のコラム | comments(0) | trackbacks(0)
人間はものではない
 秋葉原の無差別殺人事件の衝撃について、屋上屋を架することになるが、やはり書かねばならない。

 殺人犯に同情する余地はない。同じような境遇でも、まっとうに生きている人が大半である。しかし、犯人及びその家族を指弾することですむと思ったら大間違いである。1つはっきりしているのは、厳罰主義は犯罪の抑止には無力だということである。死刑になりたくて人を殺すという犯罪がある以上、罰を強化しても犯罪は防げない。

 今回の事件をより根本的に考えるなら、生きる希望をまったく持てないような社会を造り出した側が、真剣に反省することから事件の解明は始まるべきである。この十年ほどの間、労働の世界は様変わりした。労働の規制緩和とは、人間をものと同じように扱ってもかまわないというルールを作り出したことを意味する。そのような潮流に棹さして、金を儲けた人もたくさんいる。

 その一方で、もの扱いされる人間が大量に堆積することとなった。尊厳を無視された人間が増えれば、確率の問題として、これからも犯罪は増えるだろう。

 我々が犯罪を他人事ではないと思うなら、犯罪に対するのと同じ怒りを、犯罪の原因である社会構造に向けるべきである。そして、人間の尊厳が守られる社会を回復するために、それぞれコストを払わなければならない。(東京新聞6月16日)
00:00 | 山口二郎 | 東京新聞 本音のコラム | comments(0) | trackbacks(0)
08年6月:耄碌の兆候
 私は今年50になる。いわゆる論壇でものを書き始めて20年になろうとしている。長い間次の世代の論客が出てこないことに不満を持っていたが、最近ようやく若手が活発に発言するようになった。論客というのは十数年おきに塊で現れるようである。私の同世代には、香山リカや佐藤優など、1950年代末から60年生まれの論客がいる。今発言し始めたのは、1970年代前半生まれの人々である。

 若い知識人が世の中の現状を批判することは、それ自体で喜びたい。しかし、同時に自分も年を取ったという感慨を覚える。彼らは、新自由主義全盛の現状を批判する時に、今までの左翼がだめだったと言う。そういえば、私たちも十数年前には、団塊世代がだめだから日本が悪くなったと言ったなあ。今度は我々が突き上げられる番だ。

 確かに批判されても仕方ない。しかし、若い知識人に対しては、君たちは現実政治と切り結んで、体を張って何かを主張したことがあるかいと訊きたくなる。

 そんな反発をすること自体、こちらの老化の表れなのだろう。私たちポスト団塊の世代は、若い世代に対する時、「俺たちの若い頃は」と言うほどの若い頃をもっていない。それはむしろ強みなのだ。若い世代に生意気だなどと説教するよりも、もっと先鋭に書くことに努力したい。(東京新聞6月2日)
23:59 | 山口二郎 | 東京新聞 本音のコラム | comments(4) | trackbacks(0)