2015.07.27 Monday 11:25

対案という病

 安全保障法制について、安倍首相が国民に説明すると意気込んでテレビに出たものの、あまりに的外れなたとえ話が国民の一層大きな疑問を招き、内閣支持率は大きく下落している。多数決に持ち込まれる前に、世論を高めることが法案成立を阻止する有効な抵抗の手段である。暑い夏を迎えるが、今までにまして国会周辺や各地での運動を広げなければならない。

市民の戦いを尻目に、民主党の一部からは安全保障法制に対案が必要だという声が出ている。反対ばかりでは政権政党になれないと考える政治家が、対案作成を通して野党再編成を目指すとも言われている。

これこそ野党の自殺行為である。予算に関わる話なら、対案を出して修正を勝ち取るという戦法もある。しかし、立憲民主主義を破壊する政府与党に対して中途半端な対案を提示すれば、政府にとっては格好の援軍となる。こんな初歩的な政治算術も分からない政治家が新党を作っても、安倍政治に不安を持つ市民の支持を受け止められるはずはない。

憲法と民主主義を破壊する安保法制には、断固粉砕が唯一の対案である。それが実現すれば、この国を脅かす本当の脅威、原発事故への対応、人口減少への対策、財政や社会保障の持続可能性の確保について、対抗提案を考えることこそ、野党の仕事である。


東京新聞7月26日


2015.07.20 Monday 22:24

政治家の劣化と政治権力の空洞化

 自民党の文化芸術懇話会という会合で、議員たちが批判的なテレビを懲らしめるために広告主である大企業に働きかけようとか、沖縄の県民世論が左傾化しているのを何とかしたいとか、埒もない与太話で気勢を上げていたことは、政治家の劣化を印象付けた。政治家の一部が知性と品性を欠いていることは確かだが、そのことに目を奪われて、日本の政治権力におけるもっと重大な欠陥を見過ごすことがあってはならない。


 今、安保法制と並んでいくつかの重要な政策決定が行われようとしている。それらに共通しているのは、かつて丸山真男が日本の戦争に至る政策決定を分析する中で析出した「無責任の体系」である。丸山によれば、日本における無責任な政策決定には次のような特徴がある。第一に、現実を直視せず、希望的観測で現実を認識したような自己欺瞞に陥る。第二に、既成事実への屈服。事ここに至っては後戻りできないと諦め、誤った政策をずるずると続ける。第三に、権限への逃避。誤った政策が事態を悪化させることを認識しても、自分にはそれを是正する力はないと、自分の立場、役割を限定したうえでそこに閉じこもり、政策決定の議論から逃避する。こうした特徴を持つ無責任な政策決定によって、日本は七〇年前、敗戦という破局にいたった。


 それから七〇年、最近の重要な政策決定を見るにつけ、政治家、官僚というエリートの無責任体質は変わっていないと痛感する。その悪しき意味での持続性には、驚嘆、嘆息するしかない。第一の例は、新国立競技場の建設である。これについては本誌の先週号に玉木正之氏による詳しい分析が載っていた。経費は桁違いに大きく、財源調達のめども立っていない。技術的な難題もクリアされていない。それにもかかわらず、文部科学省の官僚は二〇一九年のラグビー、ワールドカップに間に合わせなければならないとか、ここまで来たらキャンセルできないという理屈で、工事の契約をしようとしている。財務省は、財源調達は文科省の仕事と突き放していると報じられている。そうなると国立競技場のために本来の教育予算が削減されることもありうる。ついでながら、こんな無能な官庁の役人に大学や学問について口出しをされることへの大学人の憤懣を、読者にはご理解いただきたい。


 第二は、六月三〇日に閣議決定された「経済財政運営と改革の基本方針(骨太の方針)」である。そこでは、二〇二〇年にプライマリーバランスの黒字化を実現するという目標が設定された。しかし、そこでは社会保障費の伸びを今後三年間で一・五兆円に抑えることや、実質二%、名目三%超の高い経済成長率が続くことが前提とされている。まさに希望的観測に基づく皮算用である。


 第三は、安保法制である。これについて言うべきことは多いが、ここでは一点だけ批判しておく。自衛隊の海外における他国軍への後方支援活動は安全だと政府は言い張る。しかし、野党や多くの識者が指摘しているように、後方支援は武器、弾薬、燃料等の補給活動、すなわち兵站である。兵站は戦闘そのものである。これを安全な後方支援と名付けるのは日本政府の勝手ではあるが、国際的に通用する論理ではない。日本の同盟国と戦っている敵国は遠慮なしに自衛隊を攻撃するに違いない。集団的自衛権を行使して戦闘に参加するならば、最初からその本質を自衛隊員と国民に説明し、覚悟を求めるのが指導者の責務である。自衛隊は武力行使をしているわけではないのだから、敵国やテロリストはこれを攻撃しないというのは、犯罪的な欺瞞である。


皮肉なことに安倍晋三首相は指導者として決断を下すことが大好きである。憲法解釈については私が最終的責任者だと主張し、安保法制については時期が来れば採決しなければならないと言う。決定への意欲が無責任な政策の選択をもたらすのはなぜか。それは政治家や官僚が問題の本質を理解する知力を持っていないからである。日本政治を毒している反知性主義の弊害といってもよい。反知性主義について、佐藤優氏は「実証性や客観性を軽視もしくは無視して、自分が欲するように世界を理解する態度」と定義している。件の自民党の懇話会で百田尚樹という作家が行った講演は、自分が欲するように世界を理解することの典型例である。それをありがたがる議員が安倍首相の親衛隊だというのだから、病は深刻である。


安倍首相は、選挙で勝利し、国会で多数を握っていることで、自分の行為をすべて正当化している。いまや、首相と自民党は多数派であることによって、自分たちの持つ偏見や先入観をも正当化しようとしている。安保法制に関して国会で野党の追及を受けても、最後は、安保法制は合憲で、自衛隊の活動は安全だと「確信している」と言って議論を打ち切る。中世の欧州人は太陽が地球の周りを回っていると信じていた。確信の強さは信条の中身の正しさとは無関係である。確信の根拠と論理を説明するのがまっとうな議論である。


希望的観測や先入観をもとに政策を考えれば、失敗するに決まっている。戦後七〇年の今、国を滅ぼした無責任の体系を反省するのではなく、反知性主義に染まった政治家と官僚がそれを繰り返し、一層無責任な政策決定を進めようとしている。この風潮をいかに止めるか。反知性主義者に知的になれと説教をすることには意味がない。しかし、偏見をむき出しにして権力を使う政治家を次の選挙で落選させることはできる。また、反知性主義の蔓延をこれ以上広げないために、野党やメディアがなすべきことは多い。沖縄の二つの地方紙がそうしたように、無知や偏見に対してメディアと言論人は徹底的に戦わなければならない。また、野党が今なすべきことは、中途半端な対案を出すのではなく、政府の欺瞞をあくまで追求し続けることである。

 

週刊東洋経済7月11日号


2015.07.20 Monday 22:21

決めるのは我々だ

  デモクラTVというインターネット番組でご一緒した飯田哲也さんが、日本の原発政策は、妄想、願望、既得権という3つで構成されていると言った。とてもうまい表現であり、原発だけではなく他のいろいろな政策にも当てはまる。

 安保法制にしても、安倍政権は、ペルシャ湾の機雷封鎖とか中国が攻めてくるといった妄想を煽り、アメリカに気に入られたいという願望の下に進めている。そして、軍事力強化でひともうけをたくらむ勢力が後ろについているのだろう。

 新国立競技場の件も同様だったが、国民からの余りに大きな批判の前に、政府は撤回を余儀なくされた。支持率回復の下心は見え見えだが、無謀に突き進むよりは良い。これを安倍首相の手柄だなどと褒めるお人よしはいないだろう。もともと狂った政策だったのであり、撤回するのが遅すぎたくらいである。

 世論は無力でないことは、国立競技場の一件で証明された。国の政策を決めるのは我々だという民主主義の原理を取り戻したと、多くの国民は実感しているはずだ。

これから原発再稼働、安保法制の参議院での審議など、重要な政策課題が安倍政権の行方に立ちはだかっている。自信を持って戦おう。もっと声を出そう。自民党総裁選を無風で乗り切り長期政権を作るという安倍首相の妄想を砕くために。


東京新聞7月19日


2015.07.13 Monday 12:59

ニッポン無責任時代

 愚かな為政者は、あらゆる問題について愚かな決定をするものだと痛感させられている。言うまでもなく、新国立競技場の件である。世界に対して新しいスタジアムを造ると約束したとか、二〇一九年のラグビーワールドカップに間に合わせるためには今決めなければならないとか、およそ理由にならない説明ばかりである。結局政治家の見栄のために途方もない無駄遣いが決定された。

 新国立競技場、安全保障法制そして原発再稼働、これらの政策決定は、日本政治を蝕む無責任という病気の症状なのである。この病は、戦後政治学のパイオニア、丸山真男が大日本帝国の戦争遂行過程を分析する中で見出したものである。この病に罹った指導者の特徴は、既成事実に屈服する。事実を直視できず、希望的観測に基づいて行動する。まずいと思っても自分には止める力がないと諦め、保身に走るなどである。集団的自衛権を行使しても敵方は日本を攻めることはないだろうとか、地震や噴火が原発を襲うことはないだろうとか、空想的楽観主義の下で政策決定が進んでいる。

 戦後七〇年、日本には一応民主主義が定着したはずである。しかし、無責任の病は深刻の度を増している。様々な失敗に目をつぶり、何も考えずに無責任な政治家を当選させるならば、国民全体も無責任と後世の人々に批判されることになる。


東京新聞7月12日


2015.07.13 Monday 12:56

安保法制に関する反対意見

 

安保法制に関する反対意見

                          山口二郎


1 戦後70年の中に安保法制を位置づける

 今年は戦後70年の節目の年であり、日本の来し方行く末を考える重要な機会なので、まず安保法制を戦後日本の歩みの中に位置づけ、その意味を考えてみたい。

 戦後日本の国の形が大きく変化した契機は、1960年のいわゆる安保騒動、あるいは闘争であった。当時の岸信介首相は憲法、特に9条を改正して国軍を持つことを宿願としていた。そのための第1歩として、安保条約の改定を図った。これに対して、空前の規模の抗議活動が起こり、数十万の市民が国会や首相官邸を取り巻いた。当時の人々が新安保条約を理解していたかどうかはともかく、人々は岸首相が体現する戦前回帰、戦後民主主義の否定という価値観に反発して未曽有の運動が起きた。安保条約自体は衆議院の可決により承認されたが、岸首相は退陣を余儀なくされた。

 自民党はこの騒動から重要な教訓を学び取った。憲法と戦後民主主義に対する国民の愛着は強いものであり、それを争点化することは大きなリスクを伴うという教訓である。岸の後を襲った池田勇人首相は、憲法改正を棚上げし、経済成長によって国民を統合する道を選択した。この路線は以後の自民党政権にも継承された。安全保障政策においても、憲法9条を前提とし、これと自衛隊や日米安保条約を整合的に関係づける論理が構築された。それが専守防衛という日本的平和国家路線であった。憲法9条の下で日本は自国を守るためだけに必要最小限の自衛力を持つという原理が確立した。海外派兵はしない、集団的自衛権を行使しないという原則は、そこから必然的に導き出されるものである。

 1960年代以降の自民党政権は、この原理を定着させ、軍事力の行使について謙抑的な姿勢を貫いた。まさに戦後レジームはほかならぬ自民党が作り出した体制であり、そのもとで日本は平和と繁栄を享受したのである。

 今回の安保法制に関連して、日本が他国の戦争に巻き込まれる恐れがあるという議論がある。戦後日本が戦争に巻き込まれずに済んだのはなぜか。それは、緊密な日米同盟のおかげではなく、日米安保条約の下、日本が集団的自衛権の行使を禁止していたからであった。この点は、1960年代末のベトナム戦争への対応をめぐる日本と韓国の違いを見れば明らかである。韓国は米韓相互防衛条約の下、アメリカにベトナムへの出兵を求められ、韓国軍はベトナムで殺し、殺されるという悲惨な経験をした。集団的自衛権の行使を否定した日本はベトナムへの派兵など、全く考慮する必要はなかった。1960年代の安保闘争で、市民が岸政権を退陣に追い込み、憲法9条の改正を阻止したことで、日本は戦争に巻き込まれずに済んだのである。

 20世紀後半に効果を発揮した日本的平和路線は、21世紀にも有効かどうかがいま問われている。確かに、この20年間の国際環境の変化は大きい。中国の経済発展と軍事力の拡大、北朝鮮の核開発など、日本に隣接する地域での不安定性は増加している。日本は自らの安全を確保するために、集団的自衛権の行使に転換する必要があるのだろうか。答えはノーであると私は考える。

 日本の領域を守ることは、個別的自衛権によって対処すべき課題である。この点を、安倍首相自身が「国民の理解を得るため」と称して76日に行ったインターネット番組で使われた表現を検討することで、この点を考えてみたい。首相は次のように述べた。

「一般の家庭でも戸締りをしっかりしていれば泥棒や強盗が入らない。また、その地域や町内会でお互いに協力しあって、隣の家に泥棒が入ったのがわかったらすぐに警察に通報する。そういう助け合いがちゃんとできている町内は犯罪が少ない。これが抑止力なんですね。」

 この点で、私は珍しく安倍首相と意見が一致する。国を家に例えるなら、戸締りをしっかりするのが自衛力整備である。だが、門の外まで出張っていって、悪者退治に加わることは自宅の安全に資する行為ではない。また、近隣の人々と協力し合うことは、地域の安全にとって極めて重要である。日本が協力し合う近隣とは、アメリカも含まれるだろうが、韓国、中国を抜きに、町内会は構成できないはずである。自衛力を整備しつつ、隣家との利害の違いは認識したうえで、隣家との共存のために話し合いをすることこそ、自宅の安全を高める道ではないのか。安倍首相のインターネットでの演説は、集団的自衛権の行使の理由を説明するものではなく、全く逆に、専守防衛と地域的協力が必要な理由を説明するものである。首相自身に、自分が何を実現したいのか、冷静に認識していただきたい。

 安保法制を推進する政府与党は、日本が集団的自衛権を行使することによって日米の同盟関係が一層緊密化し、抑止力が高まると期待している。しかし、これは希望的観測というものである。アメリカは日米安全保障条約第5条が定めるとおり、「自国の憲法上の規定及び手続きに従って」条約上の義務を果たすにとどまる。アメリカが大規模な軍事力の行使を行う際、憲法により、議会の承認が必要とされている。アメリカが中国との武力紛争を望んでいないことは明らかである。尖閣諸島の問題についても、アメリカは日本の施政権の保有は支持するが、領有権にはコミットはしていない。アメリカは常に、日中間の領土紛争は平和的に解決することを求めていることを忘れてはならない。

米中関係自体が決してうまくっているわけではない両国は戦争は何としても避けるという前提で、粘り強く対話しようとしている。それに引き替え、日本は中国との対話や相互理解はそっちのけで、自国が武力行使をする可能性を拡大すればより安全になると主張しているのは、政治的に稚拙である。

 

2 安全保障法制の内在的問題点

 次に、安全保障法制が抱える問題点について、考えてみたい。そもそもこの法案は、専守防衛を逸脱するものであり、憲法違反である。それに加えて、特に憂慮すべき点を指摘したい

 第1は、武力行使が可能となる状況の規定である。法案では、存立危機事態、重要影響事態という新しい概念が提示され、それぞれにおいて日本が集団的自衛権を行使できるとされている。しかし、国会審議においても、2つの事態の意味が明確に定義されることはなかった。状況がどの事態に該当するかを判断する際の考慮事項は例示されたが、実際の判断は政府が「総合的」に決めるという答弁しかなかった。これでは、存立危機事態も重要影響事態も、武力行使を制約する縛りにはなりえない。政府は集団的自衛権の行使に当たって、大きな裁量を手にすることになる。日本が他国の戦争に巻き込まれる危険性が高まるという批判は、この点を捉えている。

 また、自衛隊による後方支援活動について、それを行える場所と行えない場所の線引きはなくなった。従来は、戦闘地域と非戦闘地域という一応の概念的区別が存在した。この区別は、現場の指揮官が、他国軍隊の武力行使と一体化するおそれについてその都度判断することの困難を踏まえ、余裕をもって一律の判断ができるための配慮として設けられたものであった。今回の法制で、現に戦闘が行われていない地域において自衛隊は他国軍に対して後方支援が行えるとされている。自衛隊が行うと想定されている武器弾薬の提供や燃料の供給は武力行使と一体の行為である。この点で後方支援活動は憲法違反である。

第2は、あまりに空想的な希望的観測の上に法制が構築されている点である。重要影響事態における後方支援活動について、現に戦闘が始まったら撤収するから危険ではないと説明されている。これほど荒唐無稽な空論はない。現に戦闘が行われていない地域であっても、いつ何時本格的な戦闘が行われるかわからない。古来、戦争において糧道を断つことは戦術の常識であった。自衛隊が同盟軍に武器、燃料等の補給を行えば、相手方にとって自衛隊は敵軍である。当然、補給を断つ攻撃を仕掛けてくることは明らかである。後方支援の本質は兵站である。後方支援だから危険ではないなどという言い分は、日本政府が国民に気休めを与えるための机上の空論である。

後方支援であれ、他国の武力行使に一体化することは、戦争への参加を意味する。このことは、自衛隊員の危険を高める。また、日本国内に生活する国民の危険をも高める。アメリカによるイラク戦争に参戦したイギリス、スペインで、大規模なテロが発生し、多くの市民が犠牲になったことを忘れてはならない。私はテロを正当化したいのではない。戦争に参加する以上、相手方からの様々な攻撃を受ける危険があるという現実を、包み隠さず自衛隊員と国民に告知することが指導者の責務だと言いたいのである。

 

3 安保法制を契機とする民主主義の腐食

 今回の安保法制の議論を契機に、日本政治の劣化と、民主主義原理の浸食が明らかになっている。

 まず、安倍首相は野党の質問に対して、自分は総理大臣だから正しいとか、合憲・安全だと確信していると答え、それ以上議論を深めようとしていない。中世のヨーロッパ人は太陽が地球の周りを回っていると信じていた。確信の強さは、信じている事柄の正しさとは無関係である。根拠と論理を示して説明することが為政者の義務であるが、国会審議は空洞化している。

 また、自民党の高村正彦副総裁は、3人の憲法学者が衆議院の憲法審査会で安保法制を違憲と断じたことに反発し、憲法学者は憲法の字面にこだわるとか、学者の言うとおりにして平和が守れるかと述べた。学者の端くれとしてこれには断固として反論しておきたい。

 そもそも憲法学者が憲法の文言にこだわるのは当然である。それは、数学者が1+1=2という数式にこだわるのと同じである。高村氏の発言は、政治権力は論理をねじ曲げることもあるという含意を持っている。氏は1+1が為政者の意向次第で3にも4にもなるような独裁国家を作りたいのかという疑問を抱く。今年は戦後70年であり、天皇機関説事件から80年である。権力が学問を弾圧してから敗戦で国が滅びるまでわずか10年だったという事実を思い起こすべきである。私は、学者の言う通りにすれば国が平和になるとおごったことを言うつもりはない。逆に、政治家の言うとおりにして国が愚かな戦争に突入した経験もある。戦後日本を振り返れば、政治家と学者が異なった観点から議論をし、それらの議論が正反合の関係で日本的平和国家の路線を作り出したという成功体験があることをかみしめるべきではないか。

 先般の自民党文化芸術懇話会における沖縄差別や報道機関統制の発言は、自民党という偉大な政権政党の変質を物語る。あの会合で気勢を上げた政治家に共通するのは、実証性、客観性を無視して、自分の欲するように世界を解釈するという反知性主義の態度である。あの事件が発覚した直後、政府与党の首脳は、同懇話会に参加した政治家にも発言の自由があると擁護した。したがって、同懇話会の反知性主義は局部的現象ではない。

 国の安全を最後に担保するのは、冷静な状況認識と現実感覚を持った政治指導者である。政治家に反知性主義が蔓延する現状において、安保法制が成立し、日本が集団的自衛権を行使できるようになったら、日本の政府は日本の安全と国益を守るために、冷静な判断を下すのだろうか。武力行使の範囲が広がる一方で、政治家の現実主義的な判断能力は低下する。このギャップこそ、日本にとって存立を脅かす事態である。


7月13日 衆議院 平和安全法制に関する特別委員会 中央公聴会における意見陳述


2015.07.06 Monday 10:22

言論の自由

  百田尚樹氏の沖縄県民への誹謗中傷と県紙に対する攻撃について、彼にも言論の自由があると擁護する愚か者が、政界、言論界に結構存在することに、情けない思いでいっぱいである。保守的な政治家やそれに同調する言論人は、自由には責任が伴うといつも言う。同じことをなぜ百田氏には言わないのだ。

 言論の自由とは厳しいものである。自分が主張したことが真実であるかどうかの挙証責任は、発言者が負う。根拠のない誹謗中傷や嘘を言う人間には、言論の自由を援用する資格はない。こんなことは小学生でもわかっている道理である。

 今回の百田発言に対して、沖縄の二つの新聞は委細を尽くした反論をしている。彼の言うことはすべて沖縄の人々を貶めるための嘘八百である。百田という人は今までもこの種のデマを叫んで、テレビで甘やかされたガキのような男なので、何を言っても無駄だろう。

 問題は、彼にも言論の自由があると利いた風なことを言う政治家や評論家である。言論の自由を汚したくないならば、政治的立場のいかんを問わず、百田氏に対して自分の主張の根拠を挙げるよう求めるべきではないか。そして、それができないなら、こんな嘘つきは言論界から追放すべきである。こんな男の与太話を有難がる政治家は、次の選挙で落選させなければならない。


東京新聞7月5日


2015.06.28 Sunday 23:27

永田町の野蛮人

  二六日朝の各紙は、前日自民党の会合である作家が講演し、沖縄の二つの新聞をつぶせとか、報道統制のためにテレビ番組の広告主に圧力をかけろと言ったことを報じている。この作家の妄言は論外だが、与党の政治家がそれに付和雷同して、言論抑圧の気勢を上げたことは看過できない。さらに、党内に発言の自由があるなどととぼけたことを言う幹部には、自由民主党という看板を返上せよと言いたい。

 小人閑居して不善をなし、群れを作れば集団発狂する。そもそも自民党の議員は多すぎる。同党の衆議院議員の四割は当選一、二回生である。政府の役職に就けないその他大勢は、委員会の定足数や採決の時の員数合わせ要員である。普段は暇を持て余し、ネトウヨレベルのおだを上げて、国を憂えた気分になる。

 こんな底の抜けた愚者たちが権力という凶器を持って、国を壊そうとしている。前にこの欄で、安倍政治は秦の始皇帝の時代を目指していると書いたが、ほかならぬ自民党議員がそのことを証明している。我々は文明を守るのか、野蛮につくのか、選択を迫られている。

 与党の政治家をしてここまで苛立たせ、本性を明らかにさせたのは、この間の世論の動きであり、市民の力である。国会会期を大幅に延長したことで、劣化した政治家はもっとぼろを出すことだろう。楽しみだ。


東京新聞6月28日


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