2015.07.06 Monday 10:22

言論の自由

  百田尚樹氏の沖縄県民への誹謗中傷と県紙に対する攻撃について、彼にも言論の自由があると擁護する愚か者が、政界、言論界に結構存在することに、情けない思いでいっぱいである。保守的な政治家やそれに同調する言論人は、自由には責任が伴うといつも言う。同じことをなぜ百田氏には言わないのだ。

 言論の自由とは厳しいものである。自分が主張したことが真実であるかどうかの挙証責任は、発言者が負う。根拠のない誹謗中傷や嘘を言う人間には、言論の自由を援用する資格はない。こんなことは小学生でもわかっている道理である。

 今回の百田発言に対して、沖縄の二つの新聞は委細を尽くした反論をしている。彼の言うことはすべて沖縄の人々を貶めるための嘘八百である。百田という人は今までもこの種のデマを叫んで、テレビで甘やかされたガキのような男なので、何を言っても無駄だろう。

 問題は、彼にも言論の自由があると利いた風なことを言う政治家や評論家である。言論の自由を汚したくないならば、政治的立場のいかんを問わず、百田氏に対して自分の主張の根拠を挙げるよう求めるべきではないか。そして、それができないなら、こんな嘘つきは言論界から追放すべきである。こんな男の与太話を有難がる政治家は、次の選挙で落選させなければならない。


東京新聞7月5日


2015.06.28 Sunday 23:27

永田町の野蛮人

  二六日朝の各紙は、前日自民党の会合である作家が講演し、沖縄の二つの新聞をつぶせとか、報道統制のためにテレビ番組の広告主に圧力をかけろと言ったことを報じている。この作家の妄言は論外だが、与党の政治家がそれに付和雷同して、言論抑圧の気勢を上げたことは看過できない。さらに、党内に発言の自由があるなどととぼけたことを言う幹部には、自由民主党という看板を返上せよと言いたい。

 小人閑居して不善をなし、群れを作れば集団発狂する。そもそも自民党の議員は多すぎる。同党の衆議院議員の四割は当選一、二回生である。政府の役職に就けないその他大勢は、委員会の定足数や採決の時の員数合わせ要員である。普段は暇を持て余し、ネトウヨレベルのおだを上げて、国を憂えた気分になる。

 こんな底の抜けた愚者たちが権力という凶器を持って、国を壊そうとしている。前にこの欄で、安倍政治は秦の始皇帝の時代を目指していると書いたが、ほかならぬ自民党議員がそのことを証明している。我々は文明を守るのか、野蛮につくのか、選択を迫られている。

 与党の政治家をしてここまで苛立たせ、本性を明らかにさせたのは、この間の世論の動きであり、市民の力である。国会会期を大幅に延長したことで、劣化した政治家はもっとぼろを出すことだろう。楽しみだ。


東京新聞6月28日


2015.06.25 Thursday 16:15

The security legislation and freedom of the press and expression

 

Various civic movements are rising up to oppose the security legislation proposed by the Abe administration. On June 14, roughly 25,000 people-- including myself — took part in a demonstration encircling the Diet premises to raise their voices against the legislation. On the same day, about 3,000 mainly young people took part in a protest rally held in Tokyo’s Shibuya. The number of participants in both events reportedly well exceeded the forecast by the organizers. I was shocked to see NHK’s 7 p.m. news program that evening. While the program gave a detailed report about the student demonstration in Hong Kong against the electoral reform led by China’s mainland government, it totally ignored the rallies held in Japan against the security legislation. It looks as if the public broadcaster saw it worthwhile to report on the protest in Hong Kong but saw no value in the demonstrations in Japan. I can only think that NHK has a policy of trying to avoid as much as possible reporting on moves to oppose the security legislation.
Of course NHK does not entirely kowtow to those in power. On the same evening of June 14, it broadcast an excellent documentary on the Battle of Okinawa that featured film footage of the battle and testimonies of survivors. I am fully aware that many NHK staffers — including my friends —do their best at work to produce excellent programs. But the public broadcaster’s reporting policy has no doubt been heavily influenced by the installment of people close to the Abe administration as its president and members of its board of governors.
Along with mass media, universities and scholars have become the target of attack by those in power. In the past 20 years or so, specialization and subdivision progressed rapidly in Japan’s studies in humanities and social sciences, and as a result it has become quite rare for scholars to raise their voices on current political and social issues. In that sense, it was quite rare that three constitutional scholars invited to the Lower House panel for research on constitutional issues declared the security legislation unconstitutional, sending a shock wave within the government and the ruling coalition parties. I presume that this incident shows that even scholars devoted to purely academic studies could not afford to turn a blind eye to the Abe administration’s attempt to enact a legislation that guts the Constitution.
In response, the Liberal Democratic Party’s Vice President Masahiko Komura has repeated his criticism of the scholars — that constitutional scholars are obsessed with the text of the Constitution and that Japan’s security would be in danger if the government follows what they say. Such a reaction appears to indicate that, for the first time in some while, the academia has become unpleasant to the eye of those in power.

While this year marks the 70th anniversary of Japan’s defeat in World War II, it also marks the 80th year since the “theory of the emperor as an organ of government” incident of 1935, in which Tatsukichi Minobe, a leading scholar of constitutional law and member of the House of Peers, was rebuked by military officers and ultranationalists for his liberal theory on the role of the emperor in the state and his books and teaching of the theory were publicly banned. After this infamous case of repression of academic studies, it took only 10 years for the nation to end up suffering the devastating defeat in the war.

If those in power are going to attack the practices of the academia, it is the duty of scholars to fight back. First of all, it is a matter of course that constitutional scholars care about the words in the Constitution. That’s what academic studies are about and criticism from politicians about such acts is totally irrelevant.
Then how about the relationship between arguments by scholars and political judgment? There are no correct answers to policies. Scholars criticize policies pursued by politicians and bureaucrats. It’s not a question of which side is correct. In a normal political process in democracy, better policies are created through the clash of different opinions. In fact, the national security policies of the LDP-led governments since the 1960s, including the defense-only defense posture and disavowal of the right to collective self-defense, were born out of the tension and conflict between LDP lawmakers seeking amendment to the Constitution and scholars who criticized such a move. The policies maintained so far were indeed examples of that mechanism having worked successfully.

Politicians in the LDP half a century ago had the intelligence and tolerance to listen to dissenting views from the academia. In that sense, the Abe administration pursues politics of anti-intellectualism. The education ministry — which is supposed to be in charge of education  — is at the forefront of the administration’s anti-intellectualism, calling on state-run universities to cut back on their humanities and social sciences faculties. Apparently bureaucrats at the ministry are keen on sweeping critical intellect away from Japanese society. Destruction of intellect means the loss of an ability to correct oneself, and paves the way for the weakening and eventual collapse of society. Japan is indeed at a crossroads in various senses.


Jiro Yamaguchi is a professor of political science at Hosei University

Japan Times, June 24

 


2015.06.22 Monday 16:02

仮面総理

 

 総理大臣はいいなあ。安保法制の審議で野党から何を訊かれても、同じことばかり繰り返せばいいのだから。本音のコラムで毎週違うことを書かなければならない私にはうらやましい。

最後は「私は合憲だ、安全だと確信しています」で済むのもいい気なものだ。大学で学生に、お前の確信なんか一文の値打ちもない、根拠と論理を示して他人を納得させる説明が必要だと教えている教師から見れば、あれはダメな見本だ。ゼミで学生が「私は確信しています」と言い、それ以上の説明を拒否しだしたら、授業は崩壊する。

 政府の説明がここまで破綻した理由は何か。結局自分たちが本心では軽蔑している憲法の規範性を認めたうえで、法案の合憲性を説明しようとしているからだ。婚姻関係が実質的に破綻し、早く離婚したいと思っている配偶者について、他人に対してはこの人は立派ですと説明しているようなものである。

 集団的自衛権を行使する国家になりたいというのは、一つの政策である。しかし、それはあくまで今の憲法の枠内ではできない。最初から憲法改正を提起して、国民を説得することこそ、誠実な政治家のとるべき道である。安倍首相の祖父、岸信介も安全保障についてはこの正攻法を取った。負けることは目に見えているからそうしないというのでは卑怯者である。


東京新聞6月21日


2015.06.16 Tuesday 16:32

安保法制と戦後日本の総括

 安全保障法制の国会審議が始まった。その冒頭、527日に安倍晋三首相は集団的自衛権の行使の際に他国の領域における武力行使の可能性があることも認め、戦時の機雷掃海のみを例外としてきた従来の方針を転換した。質疑の中では、武力行使が現実化する様々な例外が次々と繰り出され、一連の法制が武力行使の歯止めにならないことが明らかになっている。安倍政権が目指す安全保障政策の転換は、日本の戦後の歩みをどう評価するかという問いと密接に関連する。70周年の敗戦の日に向かって、我々は戦後史の意味と、日本の国家路線とを合わせて考える必要がある。


安倍首相は、5月の訪米の際、議会で演説し、米国の政治家や国民に向かって、戦後日本の民主政治の安定と繁栄を誇り、それは米国と価値観を共有し、協力してきたから可能になったと述べた。彼の指摘は正しい。日本は、事実上米国が原案を作った憲法の下で、民主主義と繁栄を実現した。この筋書きは、ポスダム宣言で示された日本再建の路線そのものである。党首討論で、安倍は志位和夫共産党委員長の質問に答え、ポツダム宣言を審らかに読んでいないと言った。読んでいないのは勉強不足だが、自分が米国で誇らしげに語った戦後日本の歩みがポツダム宣言に由来することくらいは認識しておくべきである。


安倍はかつて、現行憲法を「みっともない」と呼び、憲法改正こそ自らの使命という信念を持っている。彼が自己の確信に忠実であるなら、米国で憲法を押し付けられたことに抗議し、いち早く自主憲法を作ると宣言すべきである。しかし、彼にはそのような度胸はない。米国に向かっては戦後の民主体制を作ってくれたことに感謝し、日本に帰ったら憲法改正を唱える。まさに安倍は不誠実この上ない政治家である。安倍における分裂症こそ、白井聡氏の言う永続敗戦体制の本質である。


集団的自衛権の行使容認に対して、日本が他国の戦争に巻き込まれる恐れがあるという批判がある。これについて、安倍は514日の記者会見の中で、過去の安保条約をめぐる論争を振り返り、巻き込まれるという批判が的外れであることは、歴史が証明していると言った。この点でも彼は戦後史を正確に理解できていない。


彼が尊敬する祖父、岸信介が日米安保条約の改定ののち、宿願であった憲法改正と国軍設置にまで成功していたら、日本は1960年代末から、韓国と同じようにベトナム戦争に米軍とともに参加する羽目に陥っていたに違いない。日本が戦争に行かなくて済んだのは、1960年の安保闘争で市民が岸信介首相を退陣に追い込み、戦後憲法体制を守ったからである。憲法9条が存在し、集団的自衛権の行使を禁止したからこそ、日本はベトナムに派兵せずに済んだのであり、米国も日本にそのような要求をすることは無理だとわかっていた。60年の市民の運動は、それ以後の自民党政権にも大きな教訓をもたらした。自民党も国民もイデオロギー闘争ではなく、現行憲法が保障する民主政治と市場経済の体制の中で、経済発展に専心することで、繁栄は実現できたのである。


昨年7月に、安倍政権が憲法9条の解釈を変更し、集団的自衛権の行使を可能にした時、首相は日本人の生命、安全を守るために必要な限りで、武力行使を行うと説明した。しかし、今回の安全保障法制では、話がすり替えられ、「平和」を作り出す作業について日本も一端を担うことが武力行使の目的とされている。安倍政権は積極的平和主義というスローガンの下、後方支援、つまり兵站を通して米国等の友好国が繰り広げる平和の敵を成敗する戦いに参加し、地球上のどこへでも出かけると意気込んでいる。しかし、歴史を振り返ればベトナム戦争からイラク戦争に至るまで、米国が平和のためと称して始めた戦争は大義のない武力行使であった例がある。だから、米国と一蓮托生で武力行使をすることは、日本自身の安全とは無関係である。


 半世紀前とは安全保障環境が違うという議論もある。中国の台頭は事実である。それにしても、日本は個別的自衛の枠組みの中で安全保障政策を考えればよいのである。地球の裏側にまで自衛隊を派遣すれば、それだけ領土、領海の防備はおろそかになる。日米同盟の強化による抑止力強化と政府は繰り返すが、米国の指導者は尖閣諸島をめぐる日中間の対立は平和裏に解決せよと繰り返し述べてきた。外交努力なき防衛力強化は、むしろ緊張を高めるだけである。また、自爆をいとわないテロリストとの戦いの中では、抑止力は無意味である。自ら平和を作り出すための外交を展開するためには、第2次世界大戦に関する歴史認識について世界の常識を共有することが大前提となる。それなくして、中国が歴史認識を武器として利用するのを抑え込むことはできないからである。


 結局、安倍首相の頭の中では、戦後憲法体制を破壊することがそれ自体目的となっている。安全保障法制はそのための手段である。だから、防衛政策の枠組みとしては矛盾に満ちたものなのである。自分の主観的満足を目的とする安倍首相は、矛盾を指摘されても何ら痛痒を感じない。このような状態こそ、日本の立憲民主主義にとっての存立危機事態である。


 安全保障法制をめぐる国会審議は、これからの日本の民主主義の命運を左右する大きな分岐点となる。「戦争は平和だ」というジョージ・オーウェルの言う新語法が定着すれば、今後日本で民主的な討論は成立しなくなる。与党の圧倒的な数的優位の中、法案成立を阻止することは難しい。しかし、結果はともかく、法案審議の過程で政府指導者の思考能力喪失と不誠実さを暴き出すことには意味がある。このような政権を持続することが、日本人の生命と安全に資するかどうか、国民に真剣に考えさせることこそ、野党とメディアそして言論人の責務である。


週刊東洋経済6月12日号


2015.06.16 Tuesday 16:31

学問と権力

 

 安保法制のずさんさが露わになり、政府与党も焦っているようだ。憲法学者の意見発言に腹を立てたのか、高村自民党副総裁が、憲法学者は憲法の字面に拘泥するとか、学者の言うとおりにしたら平和は保てるのかと、八つ当たりを言っている。学者に喧嘩を売るなら、喜んで買ってやる。

 憲法学者が憲法の言葉にこだわるのは、数学者が「1+1=2」という論理にこだわるのと同じくらい当たり前の話である。高村氏は、権力者の意向で1+1が3にでも4にでもなる独裁国家を作りたいのか。

 私は、学者の言う通りにすればみんな幸せになるなどと、驕ったことは言わない。しかし、戦後日本でも、学者が法理に照らして為政者に批判を加えてきたからこそ、為政者は自分たちのやり方を考え直した。憲法9条の下で専守防衛、集団的自衛権不行使などの平和国家路線は、そのようにして生まれたのである。学者が権力への批判をしなかったら、日本はまったく別の国になっていたに違いない。

 折しも、文科省は国立大学の人文社会系の学部を廃止しようとしている。文科系の学問の目的の1つは、権力と正義の識別を教えることにある。強者に対しても臆せず理非曲直を明らかにすることこそ、学問の力である。どうやら日本は、秦の始皇帝の時代を目指しているようである。


東京新聞6月14日


2015.06.09 Tuesday 18:26

ひとりよがり

  安保法制の審議で特にばかばかしいのは、遠い戦乱の地で同盟国などに後方支援を行う際、後方支援だから安全だ、自衛隊員のリスクを高めないと首相が繰り返していることである。多くの人が指摘している通り、後方支援とは武器弾薬、燃料等を補給する活動であり、戦闘行為の一環である。古来、糧道を断つことこそ戦の常道である。

 この安保法制は、集団的自衛権を行使する際に、同盟国が戦う相手側は、日本がしてほしくないことはしないという勝手な思い込みの上に成り立っている。後方支援が安全だと言い張るのもその一例である。

 改憲派は、憲法前文にある「諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」という言葉を、非現実的と非難してきた。しかし、この決意は日本側から攻撃を仕掛けることはないという原則と結びつくことで、専守防衛という現実的な安全保障政策の基盤となってきた。

 今回の安全保障法制では、日本から攻撃しないという制約を取り払う。にもかかわらず、敵国は後方支援の自衛隊を攻撃しない、日本国内でテロを起こさないなど、敵国の善意を信頼したストーリーの上に自衛隊を動かそうとしている。これこそ、自衛隊のみならず国民を危険にさらすことになる。


東京新聞6月7日


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