2014.10.14 Tuesday 18:11

嘘つきは誰か

 

 臨時国会では、ようやく野党が政府を追及する、やる気を見せるようになった。日本がまともな自由と民主主義を保持しているのかどうかが問われている状況である。

 閣僚や与党の幹部がヘイトスピーチを行う団体と深い関係があると指摘されているが、十分な説明はない。山谷えり子大臣が在特会との関係を否定するなら、この際、在日特権なるデマをまき散らして人権侵害を繰り返す連中は民主主義と自由の敵だと断言すべきである。

 極めつけは、安倍首相の「歴史認識」である。彼は、朝日新聞の従軍慰安婦に関する「誤報」によって日本のイメージが傷つけられたと繰り返し主張している。従軍慰安婦に関する国際機関や外国の研究者の議論を読めば、朝日が伝えた偽情報とは全く無関係に、日本軍が戦争中に行った女性の奴隷的酷使を批判していることが分かるはずである。首相の一連の発言は、それこそ虚言である。そして、今後朝日が権力に対して批判的報道をしないよう威嚇する、極めて政治的主張である。

 外国のメディアは、安倍政権と自民党が自由と民主主義の常識を踏み外すのではないかと、危惧している。国内のメディアが権力者の虚言を放置して、朝日新聞批判に血道をあげるなら、メディア自身も自由の放棄に手を貸すことになる。


東京新聞10月12日


2014.10.06 Monday 18:13

自由を守る

 

 先日、本欄で日本におけるマッカーシズムの出現を指摘したが、事態は一層悪化している。元朝日新聞記者で、記者時代に従軍慰安婦について記事を書いた植村隆氏及び家族に対する人身攻撃が常軌を逸している。

 植村氏は、今年春から関西の私立大学の教授に就任する予定だったが、右派メディアの攻撃によって辞退を余儀なくされた。現在は、札幌にある北星学園大学の非常勤講師を務めているが、関西の一件で味をしめた右翼の脅迫によって、来年度の継続が危ぶまれる状況となっている。植村氏の書いた記事に批判があれば、言論で戦えばよいだけの話である。学生や家族まで巻き込んで危害を加えるなどと脅迫することは、言葉によるテロである。

 現状を憂うる学者やジャーナリストが集まって、北星学園大学が学問の自由を守るよう支援する運動を始めることとした。今の大学への攻撃を見ていると、戦前の天皇機関説事件や蓑田胸喜一派による自由主義者追い落としを思い出す。まさに戦端は開かれた。ここで右翼の横暴を止めなければ、これから日本における学問の自由は崩壊することになるだろう。

意見は違っても、言論には言論で対抗するのが自由主義の本質である。本紙の読者の方々にも、ぜひ関心を持っていただくようお願いする。


東京新聞10月5日


2014.09.25 Thursday 17:43

多元的民主政治の危機

「週刊東洋経済」最新号に載せたコ

日本版マッカーシズムについて論じている


 朝日新聞が、従軍慰安婦問題や吉田昌郎・元福島第一原発所長の証言について誤報を行ったとして謝罪や記事の撤回をしたことから、右派メディアや政治家の朝日新聞攻撃が激化している。これは一新聞社のありかたにとどまらず、日本における政治的言論の行方、さらには民主政治の方向に大きな影響を与えかねない問題である。

 事実を報道することを使命とする新聞社が誤報について謝罪、訂正するのは当然である。また、池上彰氏の朝日に対する批判的な文章を掲載しないとした編集局の当初の判断は、言論の自由に関する見識を疑わせた。

それにしても今、嵩にかかって朝日を攻撃している読売、産経の両紙の姿は、はっきり言って異常である。両紙ともに数々の誤報を行った。たとえば、読売は菅直人首相(当時)の指示によって福島第一原発への海水投入を中止させたと報じたが、これは誤報である。さらに、当時野党議員であった安倍晋三氏はこの新聞報道等をもとに、ブログで菅氏を非難した。安倍首相については、昨年のオリンピック招致の際の「原発の汚染水はアンダーコントロール」という嘘も記憶に新しい。読売や安倍氏がこれらの誤りについて謝罪、訂正したという話は、寡聞にして知らない。従軍慰安婦を強制的に連行したという吉田清治証言については、産経新聞も同様に報じていた。同じガセネタをつかまされて同じ誤報をした自分の責任には触れず、もっぱら他紙を叩くなど、まともなジャーナリズムのすることではない。

 自民党の政治家及びこれを応援するメディアは嘘をついても反省もせず、非難も受けない。自民党に批判的なメディアについては、体制寄りのメディアと政治家が部分的な誤報をこれでもかとばかり批判し、報道全体の信憑性を否定しようとする。そして、批判的メディアは委縮していく。

 この構図は、1950年代にアメリカで猛威を振るったマッカーシズムと同じである。当時のアメリカでは、ソ連や中国の台頭に対する危機感が広がり、議会で非米活動の追及が行われた。その先頭に立ったのがマッカーシー上院議員であった。そして、共産主義シンパとみなされた外交官、学者、俳優などが職を追われた。でっち上げや偽証に基づく追及も多かった。

非米を反日、共産主義を韓国や中国に置き換えれば、現在の日本の風潮そのものとなる。実際、朝日新聞で慰安婦問題を追いかけてきた元記者は、退職後ある大学の教授に就任する予定だったが、大学に対する右派メディアと右翼の執拗な攻撃、嫌がらせによってその話はつぶされた。この元記者は別の大学で非常勤講師を務めているが、その大学にも嫌がらせが殺到し、仕事を続けられるかどうか危ぶまれている。今の大学人は、学問の自由や表現の自由を守るために権力や社会的圧力と戦った経験を持たないので、原則を簡単に曲げる場合もある。

問題は、日本にエド・マーローがいるかどうかである。ジャーナリストのマーローはマッカーシズムの虚偽を見抜き、自らがホストを務めるCBSテレビの番組でマッカーシーを追及した。映画『グッドナイト・グッドラック』は、マーローの戦いを描いた作品である。これを契機にマッカーシーの権勢は急速に衰退し、上院で非難決議を受けた。マーローはアメリカ社会の復元力の象徴である。日本のマーローを探すというのは他力本願の話で、学者もジャーナリストも、自由で多様な言論空間を守るために発言を続け、それぞれがマーローの果たした役割を今担うという覚悟を持たなければならない。

特に重要な課題は、問題の全体像を的確に把握する作業である。朝日の誤報責任は重いが、一部分が否定されたからといって、慰安婦や原発に問題がなかったことにはならない。一部分の誤りによって全体を否定すれば、過去の戦争を正当化したいとか、原発を一刻も早く再稼働したいと願っている特定の勢力に都合の良い結論を導くだけである。

吉田清治証言が主張した暴力的な誘拐による慰安婦調達という話は嘘だった。だが、それは慰安婦問題がなかったことを意味しない。国際社会は、多くの朝鮮半島出身の女性、さらにインドネシアにいたオランダ人女性が、人身の自由を失った状態で兵士の性欲処理のために酷使されていたという事実を問題にしている。それは、安倍首相自身が言う「女性の人権」の問題なのである。狭義の強制の不在を主張したところで、何の意味もない。

吉田昌郎調書の最も重要な点は、現場責任者が福島第一原発の現状を見て東日本壊滅の危機だと認識したことである。吉田調書の一部を組み立てて、現場職員が英雄的に頑張ったという物語を作ることも、事実の否定である。むしろ、東電幹部の証言も含め、あらゆる情報を公開して、事実を正確に記録することこそ、現代の日本人が世界や次の時代に対して果たすべき責任である。

民主主義という政治体制は、意見が異なっても政治的競争のルールとなる基本原則を皆が承認することによって成り立っている。言論、報道、学問に関する自由は、その中でも最も中心的な原則である。権力者とそれを翼賛するメディアの嘘は放置され、批判的なメディアや学者の議論が抑圧されるという状態が深刻化すれば、日本は権威主義国家になってしまう。改造内閣の閣僚や党役員がネオナチを自称する団体と記念写真に納まっていることが報じられている現在、外国ではすでにそうした見方が広まっているのかもしれない。

もちろん、今の時代、権力が直接的に言論を弾圧するということは想像できない。しかし、右派的な新聞、雑誌、さらには過激な大衆運動を放置し、その圧力によってメディアや言論人に自主規制をさせることで、一元的な社会を作り出すというシナリオは現実的なものである。戦後70年が近づく今、日本の自由と民主主義がそれほど強固なものではないという現実が見えてきた。ひるまず発言を続けなければならない。


週刊東洋経済9月27日号


2014.09.25 Thursday 17:40

戦後日本の欠落とは何か

ちょっと前に書いた「週刊東洋経済のコラム」

歴史認識が政治争点となる今、議論の材料となればと願う。


 来年は戦後70年である。社会党委員長であった村山富市首相の下で戦後50年を迎えた時と比べて、この20年ほどの間で、戦争と戦後の意味づけ方が、政治家の中でも、一般世論においても、大きく変わったことを痛感する。それは、日本と近隣諸国との関係にも、日本自身の憲法や安全保障をめぐる政策にも、大きな影響を与えている。815日を迎えようとする今、もう一度、戦争と戦後の意味を考えてみたい。

 戦後50年の前後、私は村山政権の動きを近くで見る機会を得た。戦後50年の節目で、日本がアジア諸国を侵略し、大きな被害をもたらしたことについてきちんと謝罪し、以後歴史認識を政治争点化させないようにすること、それをもとに真に未来志向の日中、日韓関係を作り出すことは、あの政権の最重要課題であった。そのような思いで、村山談話が作成された。自民党の中には反発もあったが、加藤紘一氏などの保守内リベラル派が党内を取りまとめた。また、日本遺族会会長でもあった橋本龍太郎氏も、侵略という言葉に異を唱えなかった。

 これで戦争の歴史に関して、保守と革新の歴史的和解が成立したと、私は感銘を覚えた。革新の側は自衛隊違憲論を捨てて、保守の側は、戦争で多大な犠牲を出したことについて近隣諸国に対して謝罪、反省するという姿勢を確立したはずであった。両者の歩み寄りによって、以後日本の政治では歴史や憲法価値が政治争点ではなくなり、社会経済的争点について建設的な政党間競争が展開されると、私は期待したのである。

 しかし、その期待は外れた。自衛隊違憲論の旗を降ろした革新勢力は見る見るうちに衰弱し、消滅寸前である。他方、保守の中ではリベラル派が激減し、歴史認識について世界標準を拒絶する唯我独尊的ナショナリストが主流派となった。ナショナリストは、まさに戦後50年のころから捲土重来を期した運動を広げ、自民党の中枢部を占拠するに至った。

 なぜ、革新が消滅し、穏健派が周辺化されたのか。そのヒントは、白井聡氏の『永続敗戦論』(太田出版)が提供してくれている。白井氏は、戦後日本が一貫して敗戦という事実から目を背け、欺瞞の中に引きこもっていたことを指摘する。米国との関係では、冷戦構造の中で従属的パートナーとなることで敗戦を否認し、アジアとの関係では圧倒的な経済力を誇って敗戦を否認してきた。右派の得意な歴史修正も戦後レジームの批判も、米国が許容する範囲内で、国内向けにのみ行われてきた。

保守内リベラル派の「9条、自衛隊、安保を共存させる」という専守防衛路線も、永続敗戦体制の一部であった。それは、冷戦構造と日本の経済的繁栄という特殊な歴史的事情の上に成り立った僥倖であり、思想や戦略に鍛え上げられてはいなかった。冷戦が終わって局地的に暴力が頻発するようになったとき、9条はいかなる意味を持つのか。日本がアジア唯一の経済大国の地位を失った時に近隣の国々といかにして対等な関係を作るのか。今まで憲法を擁護してきた側は十分な答えを出せなかった。

村山政権のモットーが「人に優しい政治」であったことに象徴されるように、護憲・リベラル派は国家の権力性を後退させ、無害な国家を是としてきた。しかし、オウム真理教によるテロ事件、北朝鮮による拉致事件の発覚、中国の軍事的台頭、そして東日本大震災と福島第一原発事故など戦後50年以降には、むしろ秩序を維持するために強い国家権力が必要であると思わせる出来事が相次いだ。こうした状況の中で、控えめで無害な国家を目指す戦後平和主義の路線は、次第に支持を失っていった。

安倍晋三政権による集団的自衛権の行使容認という転換は、この20年間の護憲・リベラル派とナショナリストの力関係の逆転の到達点であった。権力性を持った国家を回復することはナショナリストの念願であった。しかし、憲法改正や核兵器の開発など外形的な行為によって日本が一人前の国家になれるという彼らの信念も、大きな錯覚である。国民と主権を守るという覚悟が欠如している点では、ナショナリストも所詮は戦後政治の枠内でしか生きていない。そもそも戦後70年にもなろうとしているのに、中、露、韓三国との間で国境線紛争を引きずっていること自体、日本の政治家が世界政治に乗り出す意欲を持っていなかったことの帰結である。

311への対応にそのことは明瞭に表れている。仮に、ナショナリストが潜在的核保有国として原発を維持したいと思うなら、また、国土の一部を毀損し多くの国民を流民にしたことに責任を感じるならば、原子力政策を原子力ムラという倫理観と公共心を欠いたエゴイスト集団に任せられないと怒るはずである。責任者を粛清しつつ、新たな推進体制を構築しなければ、原子力政策は政治的に維持できない。その点を理解せず、ムラの復活を容認するなど、日本の為政者が真の権力政治家になれていない証拠である。

もちろん、戦後民主主義と平和を擁護してきた側は、敗戦経験という政治的資源が消尽する前に、平和主義の思想を確立することが必要である。その際に必要なことは、権力を適切に行使して、国民を守るという覚悟を組み込むことである。それは、軍事力を増強したり、他国を敵視したりすることを意味しない。理非曲直を明らかにし、歴史の審判に耐えられるようにすることが、権力者に不可欠の心構えである。

民主党政権が権力を担えないひ弱さを露呈し、安倍政権が戦後レジームからの脱却に踏み出すに及んで、従来平和と民主主義を叫んできた側も、平和国家を担う強靭な権力者をいかに作り出すかという課題に逢着したということができる。従来の護憲リベラルを超える理念を構築することが急務である。


週刊東洋経済8月23日号


2014.09.22 Monday 17:41

日本版マッカーシズム


 前にも本欄で書いたが、このところの朝日新聞攻撃は異様である。為政者とそれを翼賛するメディアの嘘は垂れ流され、権力に批判的なメディアのミスは徹底的にたたかれる。安倍首相は、「福島第一原発の汚染水はアンダー・コントロール」と世界に向かって大嘘をついたことについて、撤回、謝罪したのか。読売や産経も、自分の誤報は棚に上げている。

 この状況は、1950年代米国で猛威を振るったマッカーシズムを思わせる。マッカーシーという政治家が反対者に「非米」、「共産党シンパ」というレッテルを貼って社会的生命を奪ったのがマッカーシズムである。今、日本のマッカーシーたちが政府や報道機関を占拠し、権力に対する批判を封殺しようとしている。

 ここで黙るわけにはいかない。権力者や体制側メディアの嘘についても、追及しなければならない。マッカーシズムを止めたのは、エド・マーローという冷静なジャーナリストだった。彼は自分の番組で、マッカーシーの嘘を暴いた。詳しくは、『グッドナイト&グッドラック』という映画を見ていただきたい。いま日本の自由と民主政治を守るために、学者もジャーナリストも、言論に関わる者がみな、エド・マーローの仕事をしなければならない。

 権力者の嘘を黙って見過ごすことは、大きな罪である。


東京新聞9月21日


2014.09.15 Monday 17:31

歴史と物語

   昭和天皇実録が公開された。メディアは日本近代史の貴重な史料として内容を紹介しているが、私は物足りない印象を持つ。

日本にとっての最大の「もし」は、ポツダム宣言受諾のタイミングである。もし、日本が19457月末にこの宣言を受諾していれば、原爆投下もソ連参戦もなかった。なぜ当時の指導者は国体護持にこだわって、大勢の日本人を犠牲にしたのか。昭和天皇はその点をどう考えていたのか。こうした疑問に対して、新聞報道の限りでは「実録」は何も答えていないようである。

 歴史はしばしば物語に転化する。とりわけ、真相を暴かれることを不都合と感じる権力者はそのような物語を作りたがる。なぜを問い詰めることによって事実を明らかにしなければ、我々は歴史から学ぶことはできない。

 同じ時期、福島第一原発事故に関する政府事故調査委員会が行った関係者への聞き取りの記録が公開された。戦後日本の政策決定者は、原発という国体に呪縛されていた。今また、現場の担当者が英雄的に頑張ったという美談から、新しい物語を作ろうとする勢力もいるようである。前線の優秀な指揮官の存在は、巨大な負け戦を進めた国家の指導者の罪を消すものではない。学者もメディアも、事実を問い詰める作業を続けなければならない。


東京新聞9月14日


2014.09.08 Monday 17:30

木を見て森を見ず

 

 このところ、朝日新聞の「誤報」が右派メディアの格好の餌食となっている。もちろん、誤報があれば報道機関として訂正、究明すべきである。ただ、日本社会の正気を保つためには、朝日攻撃が燃え盛るのを座視するわけにはいかない。

 いわゆる従軍慰安婦問題について、官憲による誘拐は虚言だった。しかし、人身の自由を失った状態で多くの女性が日本軍人のために売春をさせられていたことは事実である。虚言をそのまま報じた朝日の報道を批判しても、慰安婦の存在を消すことはできない。今日国際社会で批判を集めているのは、誘拐・略取による慰安婦調達ではなく、慰安婦の存在自体である。

 福島第一原発事故の際の現地社員の行動について、他紙が吉田昌郎元所長の証言の全貌をつかみ、現地従業員が所長の命令に反して逃げたというのは事実ではないことがほぼ明らかとなった。朝日の誤報に関心を奪われると、「東日本壊滅」の寸前まで行った原発事故の本質を見失う。

 いずれの事例でも、朝日を批判する論者とメディアは、意図的に国民に木だけを見せ、森を見ないように誘導しているのである。日本を貶めているのは、事実を隠蔽し責任を逃れた軍の指導者であり、危険な原発を作ってきた官僚、電力会社である。真の責任者を見失ってはならない。

東京新聞9月7日


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