2014.10.29 Wednesday 17:48

時代に逆行する安倍政治

 

 先月の本欄で、私は日本版マッカーシズムの出現と書いたが、世の中の風潮は依然として殺伐としている。右翼の脅迫状ではなく、有名な出版社の雑誌や本に、国賊、売国奴といった言葉が使われている。言論における品位やマナーが消えうせたようである。


 意見を異にする者を公平に扱うということは、近代社会の最も重要なメルクマールの1つである。明治初期に『明六雑誌』に加わった西村茂樹という思想家は、「賊説」(岩波文庫版『明六雑誌(下)』所収)という論説を1875年に発表している。これは今読んでも興味深い。西村は大略、次のように述べている。賊という字は、殺人、強盗を働く者の意味であり、君主に敵対する者を指す語ではない。そうした用法は古い中国の悪習であり、中国の驕りを笑う日本人が同じ言葉を使うのは奇妙である。君主に敵対する者の中には、暴政を止める、人民を救うという動機の者もおり、これを賊と呼ぶのは適当ではない。君主を助ける者の中にも賊と言うべき者はいる。


 21世紀の日本で国賊などという言葉を使う者は、近代国家にふさわしい言論空間を作るために苦労していた先人の知恵を想像すべきである。やみくもに自国を正当化するのが愛国の所業ではない。自国の歴史を虚心坦懐に振り返り、罪を潔く認め、償いをすることこそ、日本の名誉を保つ。対立する論争相手を国賊と罵倒するということは、日本の言論が明治以前に逆戻りしたことを意味する。言論に携わる者は、須く頭を冷やして、言葉遣いを正すべきである。


 安倍首相が内閣改造を行って以後、政権支持の浮揚を期待された女性閣僚が公職選挙法の初歩的なルール違反や、極右団体との関係で、政権の足を引っ張る形となっている。閣僚が地元の有権者に金品を供与するなど、言い訳のできないルール違反であり、小渕経産相も松島法相も閣僚の資格はない。


しかし、高市早苗、山谷えり子両大臣の極右団体とのつながりのほうが、問題は深刻である。それらの極右団体は人種差別を公言し、在日韓国・朝鮮人に対する脅迫や嫌がらせを繰り返し、中には罪に問われた者もいる。山谷氏が一緒に写真に納まったのはそのような犯罪者の一人である。同氏は、外国特派員協会における講演の際、外国人記者から在特会の政治活動に関する認識を問われ、評価を回避した。


朝日新聞の報道よりも、大臣のこのような態度の方が日本の名誉を傷つけている。民主主義国の指導的政治家は、自由や多様性を脅かすテロリズムと常に戦う義務を負う。高市、山谷といった政治家が本当に自由と民主主義を守るなら、ネオチや在特会などの極右集団を断罪しなければならない。それらの集団にも「言論の自由」を認め、価値相対主義の範疇で存在を認めるという態度を取れば、そうした政治家は自由の敵とみなされるのが欧米の常識である。


安倍首相は、中国に対抗する意図を込めて、日本は自由、民主主義、基本的人権、法の支配などの価値観を欧米と共有すると繰り返し述べてきた。さらには、地球儀を俯瞰する外交を展開して、国連安保理の常任理事国入りも目指すと報じられた。救いがたい愚鈍さと自己中心主義である。


常任理事国は第2次世界大戦の戦勝国による排他的クラブである。第2次世界大戦における侵略や蛮行を否定するような国家指導者が、常任理事国に迎え入れられるはずがないではないか。人種主義と歴史修正主義に親近感を持つ閣僚を多数抱える内閣のトップが、自由や民主主義を口先で唱えても信頼されるわけはない。首相は、朝日の誤報によって日本の名誉が傷つけられたと言っているが、これも外から見れば的外れである。日本を不可解な国にしているのは自国の過去の罪業を否定しようと躍起になっている政治家である。


日本政治について、国の内外でメディアの評価が大きく乖離している。国内メディアの一部は朝日攻撃を繰り返し、日本は潔白な国だというナルシシズムを広めようとしている。海外のメディアは、安倍政権が自由と民主主義の担い手であるかどうか懐疑的になっている。情報化とグローバル化が進んでいる今日、日本のメディアがこれほどまでに冷静な自己認識を失っているのは、奇妙な話である。外交官・石射猪太郎は、19379月の日記の中で、「外字新聞を見ねば日本の姿がワカラヌ時代だ」と書いたが、情報化とグローバル化の進んだ現代も同じ時代となった。


政治学者、丸山真男は最晩年にオウム真理教によるテロ事件を見た。その後、教え子が集まった場でそれについて次のような感想を述べた。自分はオウムの信者を見ても、驚かなかった。第2次世界大戦のさなかは、日本全体がオウムのようだったからだ。丸山は、日本社会に画一主義(conformism)の土壌があり、それが猛威を振るうとき自由や民主主義は吹き飛ばされると言いたかったのであろう。


前回の本欄で米国のマッカーシズムについて触れたように、画一主義は欧米でも起こりうる。だが、欧米には復元力も存在する。日本で復元力を働かせるためには、与党内の良識派や野党の政治家が声を上げることが必要である。また、メディアや学者も報道の自由や学問の自由をこういう時こそ発揮しなければならない。


小渕経産相、松島法相の辞任は安倍政権の動揺を招くであろう。しかし、小渕氏や松島法相の金品供与問題のかげで、極右勢力と親密な女性閣僚が延命するならば、日本政治の劣化は一層進むことになる。高市、山谷両氏は秋の例大祭で靖国神社に参拝したわけで、首相としてもこのタイミングでの責任追及は考えていないだろう。政党政治が腐敗、無力化し、メディアや大学が右翼の脅迫によって萎縮し、批判的知力を失っていき、最後は国民自らが自由と民主主義を放棄するという80年前の失敗が現状と重なって見える。


週刊東洋経済10月25日号


2014.10.27 Monday 17:45

国を滅ぼす財務官僚

 

 消費税率を予定通り上げるかどうか、安倍政権は難しい判断を迫られつつある。今の経済状況を見れば、税率引き上げに固執することは、国民に大きな害をもたらすかもしれない。


 日本では、国民が納得して税金を払い、その対価として政策の利益を受け取るという経験が希薄である。民主党政権時代に、自民党、公明党も加わって税社会保障一体改革を決定した背後には、国民が増税を受け容れる代わりに、社会保障を拡充し、負担と受益の関連を明確にするというねらいがあったはずである。


 しかし、安倍政権の政策によって、その本義は失われた。大半の国民にとって、消費増税はやらずぶったくりであった。広い意味の国民生活支援政策は貧弱になる一方で、得体のしれない公共事業が増やされている。また、法人税減税を叫ぶ声も大きい。挙句の果てに、財務省は教育費を節約するために、小学校の学級規模を大きくして、教師を減らせと言いだした。


 消費税率を上げるにせよ上げないにせよ、税制の決定を財務官僚の手から奪わなければならない。国民がどれだけ払い、その対価として何を受け取るかを決めることこそ、民主主義である。財務官僚の言いなりになって、形式的な健全財政にこだわるあまり、国民生活を破壊することは避けなければならない。


東京新聞10月26日


2014.10.20 Monday 17:43

大学の危機

 

 10月はノーベル賞の発表、文科省のスーパーグローバル大学という選別の発表もあり、大学や研究に関する政策論議もさかんになった。


 政府は世界水準の人材と研究成果を出せと大学の尻を叩くが、大学の教師に言わせればそういう政府が研究と教育の邪魔をしているのである。そもそも、歴史認識や人権感覚において世界常識からかけ離れた政治家たちが、グローバル化というスローガンを唱えること自体が滑稽である。


 さらに、大学に意味不明の改革を押し付けてきた文科省は、大学の教師から本来の研究、教育の時間を奪ってきた。法科大学院に至っては、明らかな政策の失敗であるが、大学の側で淘汰が進む一方、政策を推進した役人はだれも責任を取らない。


 同じ時期に、大学進学率について大きな地域間格差があることも明らかとなった。地方には大学が少ないので、優秀な若者の多くは大都市の大学に進学する必要がある。しかし、昨今の経済状況の中で、子供の学費を出せない家庭が多く、それが進学率の格差につながっている。


 政府の仕事は、意味不明の制度いじりで大学を疲弊させることではなく、勉強したい若者が思う存分勉強できるように条件を整備することである。進学をあきらめる若者の中に将来の世界的研究者がいるかもしれないのだ。


東京新聞10月19日


2014.10.14 Tuesday 18:11

嘘つきは誰か

 

 臨時国会では、ようやく野党が政府を追及する、やる気を見せるようになった。日本がまともな自由と民主主義を保持しているのかどうかが問われている状況である。

 閣僚や与党の幹部がヘイトスピーチを行う団体と深い関係があると指摘されているが、十分な説明はない。山谷えり子大臣が在特会との関係を否定するなら、この際、在日特権なるデマをまき散らして人権侵害を繰り返す連中は民主主義と自由の敵だと断言すべきである。

 極めつけは、安倍首相の「歴史認識」である。彼は、朝日新聞の従軍慰安婦に関する「誤報」によって日本のイメージが傷つけられたと繰り返し主張している。従軍慰安婦に関する国際機関や外国の研究者の議論を読めば、朝日が伝えた偽情報とは全く無関係に、日本軍が戦争中に行った女性の奴隷的酷使を批判していることが分かるはずである。首相の一連の発言は、それこそ虚言である。そして、今後朝日が権力に対して批判的報道をしないよう威嚇する、極めて政治的主張である。

 外国のメディアは、安倍政権と自民党が自由と民主主義の常識を踏み外すのではないかと、危惧している。国内のメディアが権力者の虚言を放置して、朝日新聞批判に血道をあげるなら、メディア自身も自由の放棄に手を貸すことになる。


東京新聞10月12日


2014.10.06 Monday 18:13

自由を守る

 

 先日、本欄で日本におけるマッカーシズムの出現を指摘したが、事態は一層悪化している。元朝日新聞記者で、記者時代に従軍慰安婦について記事を書いた植村隆氏及び家族に対する人身攻撃が常軌を逸している。

 植村氏は、今年春から関西の私立大学の教授に就任する予定だったが、右派メディアの攻撃によって辞退を余儀なくされた。現在は、札幌にある北星学園大学の非常勤講師を務めているが、関西の一件で味をしめた右翼の脅迫によって、来年度の継続が危ぶまれる状況となっている。植村氏の書いた記事に批判があれば、言論で戦えばよいだけの話である。学生や家族まで巻き込んで危害を加えるなどと脅迫することは、言葉によるテロである。

 現状を憂うる学者やジャーナリストが集まって、北星学園大学が学問の自由を守るよう支援する運動を始めることとした。今の大学への攻撃を見ていると、戦前の天皇機関説事件や蓑田胸喜一派による自由主義者追い落としを思い出す。まさに戦端は開かれた。ここで右翼の横暴を止めなければ、これから日本における学問の自由は崩壊することになるだろう。

意見は違っても、言論には言論で対抗するのが自由主義の本質である。本紙の読者の方々にも、ぜひ関心を持っていただくようお願いする。


東京新聞10月5日


2014.09.25 Thursday 17:43

多元的民主政治の危機

「週刊東洋経済」最新号に載せたコ

日本版マッカーシズムについて論じている


 朝日新聞が、従軍慰安婦問題や吉田昌郎・元福島第一原発所長の証言について誤報を行ったとして謝罪や記事の撤回をしたことから、右派メディアや政治家の朝日新聞攻撃が激化している。これは一新聞社のありかたにとどまらず、日本における政治的言論の行方、さらには民主政治の方向に大きな影響を与えかねない問題である。

 事実を報道することを使命とする新聞社が誤報について謝罪、訂正するのは当然である。また、池上彰氏の朝日に対する批判的な文章を掲載しないとした編集局の当初の判断は、言論の自由に関する見識を疑わせた。

それにしても今、嵩にかかって朝日を攻撃している読売、産経の両紙の姿は、はっきり言って異常である。両紙ともに数々の誤報を行った。たとえば、読売は菅直人首相(当時)の指示によって福島第一原発への海水投入を中止させたと報じたが、これは誤報である。さらに、当時野党議員であった安倍晋三氏はこの新聞報道等をもとに、ブログで菅氏を非難した。安倍首相については、昨年のオリンピック招致の際の「原発の汚染水はアンダーコントロール」という嘘も記憶に新しい。読売や安倍氏がこれらの誤りについて謝罪、訂正したという話は、寡聞にして知らない。従軍慰安婦を強制的に連行したという吉田清治証言については、産経新聞も同様に報じていた。同じガセネタをつかまされて同じ誤報をした自分の責任には触れず、もっぱら他紙を叩くなど、まともなジャーナリズムのすることではない。

 自民党の政治家及びこれを応援するメディアは嘘をついても反省もせず、非難も受けない。自民党に批判的なメディアについては、体制寄りのメディアと政治家が部分的な誤報をこれでもかとばかり批判し、報道全体の信憑性を否定しようとする。そして、批判的メディアは委縮していく。

 この構図は、1950年代にアメリカで猛威を振るったマッカーシズムと同じである。当時のアメリカでは、ソ連や中国の台頭に対する危機感が広がり、議会で非米活動の追及が行われた。その先頭に立ったのがマッカーシー上院議員であった。そして、共産主義シンパとみなされた外交官、学者、俳優などが職を追われた。でっち上げや偽証に基づく追及も多かった。

非米を反日、共産主義を韓国や中国に置き換えれば、現在の日本の風潮そのものとなる。実際、朝日新聞で慰安婦問題を追いかけてきた元記者は、退職後ある大学の教授に就任する予定だったが、大学に対する右派メディアと右翼の執拗な攻撃、嫌がらせによってその話はつぶされた。この元記者は別の大学で非常勤講師を務めているが、その大学にも嫌がらせが殺到し、仕事を続けられるかどうか危ぶまれている。今の大学人は、学問の自由や表現の自由を守るために権力や社会的圧力と戦った経験を持たないので、原則を簡単に曲げる場合もある。

問題は、日本にエド・マーローがいるかどうかである。ジャーナリストのマーローはマッカーシズムの虚偽を見抜き、自らがホストを務めるCBSテレビの番組でマッカーシーを追及した。映画『グッドナイト・グッドラック』は、マーローの戦いを描いた作品である。これを契機にマッカーシーの権勢は急速に衰退し、上院で非難決議を受けた。マーローはアメリカ社会の復元力の象徴である。日本のマーローを探すというのは他力本願の話で、学者もジャーナリストも、自由で多様な言論空間を守るために発言を続け、それぞれがマーローの果たした役割を今担うという覚悟を持たなければならない。

特に重要な課題は、問題の全体像を的確に把握する作業である。朝日の誤報責任は重いが、一部分が否定されたからといって、慰安婦や原発に問題がなかったことにはならない。一部分の誤りによって全体を否定すれば、過去の戦争を正当化したいとか、原発を一刻も早く再稼働したいと願っている特定の勢力に都合の良い結論を導くだけである。

吉田清治証言が主張した暴力的な誘拐による慰安婦調達という話は嘘だった。だが、それは慰安婦問題がなかったことを意味しない。国際社会は、多くの朝鮮半島出身の女性、さらにインドネシアにいたオランダ人女性が、人身の自由を失った状態で兵士の性欲処理のために酷使されていたという事実を問題にしている。それは、安倍首相自身が言う「女性の人権」の問題なのである。狭義の強制の不在を主張したところで、何の意味もない。

吉田昌郎調書の最も重要な点は、現場責任者が福島第一原発の現状を見て東日本壊滅の危機だと認識したことである。吉田調書の一部を組み立てて、現場職員が英雄的に頑張ったという物語を作ることも、事実の否定である。むしろ、東電幹部の証言も含め、あらゆる情報を公開して、事実を正確に記録することこそ、現代の日本人が世界や次の時代に対して果たすべき責任である。

民主主義という政治体制は、意見が異なっても政治的競争のルールとなる基本原則を皆が承認することによって成り立っている。言論、報道、学問に関する自由は、その中でも最も中心的な原則である。権力者とそれを翼賛するメディアの嘘は放置され、批判的なメディアや学者の議論が抑圧されるという状態が深刻化すれば、日本は権威主義国家になってしまう。改造内閣の閣僚や党役員がネオナチを自称する団体と記念写真に納まっていることが報じられている現在、外国ではすでにそうした見方が広まっているのかもしれない。

もちろん、今の時代、権力が直接的に言論を弾圧するということは想像できない。しかし、右派的な新聞、雑誌、さらには過激な大衆運動を放置し、その圧力によってメディアや言論人に自主規制をさせることで、一元的な社会を作り出すというシナリオは現実的なものである。戦後70年が近づく今、日本の自由と民主主義がそれほど強固なものではないという現実が見えてきた。ひるまず発言を続けなければならない。


週刊東洋経済9月27日号


2014.09.25 Thursday 17:40

戦後日本の欠落とは何か

ちょっと前に書いた「週刊東洋経済のコラム」

歴史認識が政治争点となる今、議論の材料となればと願う。


 来年は戦後70年である。社会党委員長であった村山富市首相の下で戦後50年を迎えた時と比べて、この20年ほどの間で、戦争と戦後の意味づけ方が、政治家の中でも、一般世論においても、大きく変わったことを痛感する。それは、日本と近隣諸国との関係にも、日本自身の憲法や安全保障をめぐる政策にも、大きな影響を与えている。815日を迎えようとする今、もう一度、戦争と戦後の意味を考えてみたい。

 戦後50年の前後、私は村山政権の動きを近くで見る機会を得た。戦後50年の節目で、日本がアジア諸国を侵略し、大きな被害をもたらしたことについてきちんと謝罪し、以後歴史認識を政治争点化させないようにすること、それをもとに真に未来志向の日中、日韓関係を作り出すことは、あの政権の最重要課題であった。そのような思いで、村山談話が作成された。自民党の中には反発もあったが、加藤紘一氏などの保守内リベラル派が党内を取りまとめた。また、日本遺族会会長でもあった橋本龍太郎氏も、侵略という言葉に異を唱えなかった。

 これで戦争の歴史に関して、保守と革新の歴史的和解が成立したと、私は感銘を覚えた。革新の側は自衛隊違憲論を捨てて、保守の側は、戦争で多大な犠牲を出したことについて近隣諸国に対して謝罪、反省するという姿勢を確立したはずであった。両者の歩み寄りによって、以後日本の政治では歴史や憲法価値が政治争点ではなくなり、社会経済的争点について建設的な政党間競争が展開されると、私は期待したのである。

 しかし、その期待は外れた。自衛隊違憲論の旗を降ろした革新勢力は見る見るうちに衰弱し、消滅寸前である。他方、保守の中ではリベラル派が激減し、歴史認識について世界標準を拒絶する唯我独尊的ナショナリストが主流派となった。ナショナリストは、まさに戦後50年のころから捲土重来を期した運動を広げ、自民党の中枢部を占拠するに至った。

 なぜ、革新が消滅し、穏健派が周辺化されたのか。そのヒントは、白井聡氏の『永続敗戦論』(太田出版)が提供してくれている。白井氏は、戦後日本が一貫して敗戦という事実から目を背け、欺瞞の中に引きこもっていたことを指摘する。米国との関係では、冷戦構造の中で従属的パートナーとなることで敗戦を否認し、アジアとの関係では圧倒的な経済力を誇って敗戦を否認してきた。右派の得意な歴史修正も戦後レジームの批判も、米国が許容する範囲内で、国内向けにのみ行われてきた。

保守内リベラル派の「9条、自衛隊、安保を共存させる」という専守防衛路線も、永続敗戦体制の一部であった。それは、冷戦構造と日本の経済的繁栄という特殊な歴史的事情の上に成り立った僥倖であり、思想や戦略に鍛え上げられてはいなかった。冷戦が終わって局地的に暴力が頻発するようになったとき、9条はいかなる意味を持つのか。日本がアジア唯一の経済大国の地位を失った時に近隣の国々といかにして対等な関係を作るのか。今まで憲法を擁護してきた側は十分な答えを出せなかった。

村山政権のモットーが「人に優しい政治」であったことに象徴されるように、護憲・リベラル派は国家の権力性を後退させ、無害な国家を是としてきた。しかし、オウム真理教によるテロ事件、北朝鮮による拉致事件の発覚、中国の軍事的台頭、そして東日本大震災と福島第一原発事故など戦後50年以降には、むしろ秩序を維持するために強い国家権力が必要であると思わせる出来事が相次いだ。こうした状況の中で、控えめで無害な国家を目指す戦後平和主義の路線は、次第に支持を失っていった。

安倍晋三政権による集団的自衛権の行使容認という転換は、この20年間の護憲・リベラル派とナショナリストの力関係の逆転の到達点であった。権力性を持った国家を回復することはナショナリストの念願であった。しかし、憲法改正や核兵器の開発など外形的な行為によって日本が一人前の国家になれるという彼らの信念も、大きな錯覚である。国民と主権を守るという覚悟が欠如している点では、ナショナリストも所詮は戦後政治の枠内でしか生きていない。そもそも戦後70年にもなろうとしているのに、中、露、韓三国との間で国境線紛争を引きずっていること自体、日本の政治家が世界政治に乗り出す意欲を持っていなかったことの帰結である。

311への対応にそのことは明瞭に表れている。仮に、ナショナリストが潜在的核保有国として原発を維持したいと思うなら、また、国土の一部を毀損し多くの国民を流民にしたことに責任を感じるならば、原子力政策を原子力ムラという倫理観と公共心を欠いたエゴイスト集団に任せられないと怒るはずである。責任者を粛清しつつ、新たな推進体制を構築しなければ、原子力政策は政治的に維持できない。その点を理解せず、ムラの復活を容認するなど、日本の為政者が真の権力政治家になれていない証拠である。

もちろん、戦後民主主義と平和を擁護してきた側は、敗戦経験という政治的資源が消尽する前に、平和主義の思想を確立することが必要である。その際に必要なことは、権力を適切に行使して、国民を守るという覚悟を組み込むことである。それは、軍事力を増強したり、他国を敵視したりすることを意味しない。理非曲直を明らかにし、歴史の審判に耐えられるようにすることが、権力者に不可欠の心構えである。

民主党政権が権力を担えないひ弱さを露呈し、安倍政権が戦後レジームからの脱却に踏み出すに及んで、従来平和と民主主義を叫んできた側も、平和国家を担う強靭な権力者をいかに作り出すかという課題に逢着したということができる。従来の護憲リベラルを超える理念を構築することが急務である。


週刊東洋経済8月23日号


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