2012.02.06 Monday 16:20

政治と信頼

 

 新しい年を迎え、さっそく通常国会における予算と税制改革の審議をめぐって、与野党の攻防が厳しくなることが予想されます。震災復興、社会保障の立て直しなど喫緊の課題については、与野党を超えて議論を深め、必要な政策を迅速に実現してもらいたいと思います。今の野党が政権に復帰した時には、民主党政権とまったく同じ財源難に直面するわけですから、自分たちが政権を取った時にどうするかという条件の下で政策対応を考えれば、政策決定で妥協は可能なはずです。

 今年の政治にとっての最大の難問は消費税率の引き上げです。私自身は、日本もヨーロッパ型の福祉国家を目指すべきだと思っているので、税負担の引き上げは不可避だと考えています。しかし、今の政府を見ていると、国民を説得しようという意志を感じません。政治家は借金を後世の日本人に残してはならないともっともらしいことをいいます。政治家の言葉はなぜこうも軽くなったのでしょうか。

 この点について、思想家の内田樹氏は興味深い指摘をしています。

「その言葉を信じ、あるいは誤解し、あるいは曲解して、その言葉を実現しようとする人々全員の事績について「その責めは最初にその言葉を口にした私にある」と言えなければ、言葉は重くならない。」(『呪いの時代』新潮社、七九頁)

 目の前の問題について、どこかの他人が引き起こした厄介だけど、行きがかり上自分が引き受ける、これが今の政府指導者の態度です。無責任に問題を放置するよりはましですが、それでは国民は説得されません。巨大な財政赤字は過去20年にわたる政府の政策決定の積み重ねの帰結です。与野党を問わず国会に議席を持つ政治家、政策を企画立案した官僚組織に所属する人々は、それぞれ形や重さは違いますが、何らかの責任を有しているはずです。要路にある人々が自らの罪を国民に告白することから、増税論議は始まるべきです。

 メディアでは、財務事務次官の勝栄二郎という人が政策決定を取り仕切っているとも伝えられます。この人物が財務省の事務方のトップに上りつめるまでには、主計局の責任者として様々な予算編成を統括してきたはずです。自分たちが編成した予算が、本当に国民の税金を適切に使うものだったのか、一度正直なところを聞きたいと私は念願しています。

 民主党が政権交代の時に掲げていた「政治主導」という旗印も、すっかり色あせました。しかし、野田政権が国の命運を左右する大きな課題に取り組みたいのなら、ここでもう一度政治家としての責任を取るべきです。増税を訴える前に、なぜこれほど惨憺たる財政状況に陥ったのか、自らの罪を明らかにした上で、他の政治家や官僚にもその責任を明らかにさせることが、政治指導者としての責任の取り方です。無責任の体系に今終止符を打たなければ、日本の民主政治は崩壊するしかありません。

第三文明2012年1月号


2011.12.09 Friday 15:12

リーダーシップと民意

 

 11月の上旬、TPP(環太平洋パートナーシップ協定)への参加をめぐって、国論を二分するような論争が行われました。野党はもちろん、与党内部にもかなり強い反対論があったにもかかわらず、野田佳彦首相は事実上ホノルルで開催されたAPEC(アジア太平洋経済協力会議)で、TPPへの参加の方針を各国首脳に伝えました。また、消費税率の引き上げによる財政健全化を、フランスで開かれたG20(20カ国首脳会議)で国際的な公約として掲げました。


 このような首相の行動は民主主義の原理に照らして適切なものでしょうか。このテーマは、政治思想の歴史上、古来様々な思想家が論じてきました。まず、民主党は前の総選挙や参議院選挙のマニフェストでTPPについては何も語っていませんし、増税についてはこの衆議院議員の任期中は消費税率の引き上げをしないと主張しています。したがって、野田首相の言動は民主主義のルールに反し、国民に対する背信行為だと言わなければなりません。


 他方、次々と起こる新たな問題に対する判断をする場合、すべて民意にしたがって行動することが指導者に要求されるのかどうかは、難しい問題です。私はTPPに関しては、野田首相と違う意見を持っていますが、首相が日本の将来を必死で考えた末に一つの判断を下すのは、それが多数の政治家の意見に反するものであっても、必要なことだと思います。今回については、野田首相がそうした説得の努力を払っているとは思えませんが。


 まず、選挙の時に、それ以後3、4年間にわたる国政の指導者の判断を、国民がすべて具体的に指示しておくことは不可能です。また、民意をどのように捉えるかという問題もあります。熟慮を経ない雰囲気のようなものに政治家が縛られる政治は、民主政治とは似て非なるものです。


 政策の適否は実際にやってみなければ分からないという場合もあります。大きなテーマについて、政治家や国会の多数が決定を下したらそれで終わりではありません。政策を実施してみて弊害が分かればそれを柔軟に改めるという帰納主義的な発想が、政治には必要です。


 指導者は自らの判断の根拠となった事実認識や、価値理念を示し、国民を誠実に説得しなければなりません。そして、実行に移した後も、問題があればこれを虚心に認め、次なる修正策を考えなければなりません。日本の場合、指導者にそうした誠実な姿勢が欠けていた事例が多く見受けられます。


 今回の野田首相の判断が指導者として適切なものであったのかどうか、国民が説得されたと思えるかどうかは、次の国政選挙で意思表示するしかありません。国民は一連の経緯をしっかり記憶し、次の選挙における判断材料としなければなりません。

第三文明12月号


2011.11.07 Monday 18:20

政治家との付き合い方

 

 

 9月の後半、しばらくイギリスに行ってきました。ヨーロッパ発の財政・金融危機の最中、イギリスでは、急増した財政赤字を抑えるために、国民負担の増加、社会サービスの切り下げなどの厳しい緊縮政策を展開しています。これは1年前の総選挙の際のマニフェストには何ら書かれていないことばかりです。

 もちろんこうした政策は国民の反発を招き、都市では若者による暴動まで起こりました。世論調査の支持率でも、キャメロン政権の人気は低下しています。加えて、取材のために盗聴までしていた新聞社の幹部をキャメロン首相は側近に登用したことが暴露されました。日本ならば、すぐに政権の行き詰まりという見出しが新聞に踊り、政局の混乱という話になるでしょう。

 イギリスで友人と話したり、新聞を読んだりして感じたのは、イギリスでは政治家を批判することと、辞任を要求することがはっきり区別されているということです。日本語で「責任を取れ」と言えば、辞めろと同じ意味です。イギリスでは、民主的に選ばれた指導者は、一定の期間仕事をして、国民の負託に応えることをもって、責任を取るという了解が、与野党にも、メディアにもあると思いました。

 民主主義とは、国民が権力者を自由に更迭する仕組みです。したがって、政治家に約束違反や大きな失敗があった場合、辞めさせることが必要な場面もあるでしょう。しかし、最近の日本ではあまりにも簡単に政治家を辞めさせる弊害があると言わなければなりません。思うに、責任を取ることと辞めることを同一視する発想は、自民党が万年与党だった時代の、万年野党社会党の党利党略に由来しています。政権を担う党はいつも同じなのだから、何か不祥事があればトップのクビをすげ替えることで、溜飲を下すという考えです。

 しかし、今は政治の前提が根本的に違います。中身はともかく、政権交代可能なしくみができました。政府与党には一定期間仕事をさせ、失敗や不祥事があれば次の選挙で辞めさせることによって、責任を取ってもらうというのが、政権交代可能な時代における責任の論じ方です。民主政治においては、野党は政府を厳しく批判しなければなりません。しかし、批判すること、監視することと足を引っ張ることは同じではありません。野党による批判や対案の提示は、次の選挙に向けた国民への情報提供という意味を持っています。自民はそうした野党の役割を会得できていません。公明党のような政策主体の政党には、批判と提言のバランスを取ってもらいたいと思います。

 民主党政権が不安定なのは、自業自得の面も大きいので、あまり擁護はできません。それにしても、政治家に時間を与えなければ、国全体が大きな混乱に陥る事を国民としても理解しておく必要があると思います。

第三文明11月号


2011.10.10 Monday 16:08

民主政治と議論

 

 野田政権が発足し、野田佳彦首相は所信表明演説で与野党を超えた議論の必要性を訴えました。大震災からの復興、原子力発電所事故への対策などは、誰が政権を取っていても、やるべき課題は同じなので、超党派的な議論の上で、必要な政策をどんどん実行して欲しいと思います。

たとえば、個人の家屋の補償については五百万円を上限として公費が出されますが、工場、農地、漁船などの生産手段についてはそのような仕組みがありません。被災者の方々がもう一度希望を持って生きるためには、今まで従事してきた仕事に就くことが不可欠の前提であり、融資だけではなく、公費による補助が必要だと思います。財務官僚がいやがるなら、それを乗り越えるのが政治主導というものです。そうした本来の意味での政治主導を実現するためには、国会における与野党を超えた議論こそが原動力となります。

日本の政治における議論の空しさを物語る事件として、原子力発電をめぐる公開シンポジウム等における「やらせ」が九州や北海道で明らかになりました。これは、公開の自由な討論会という外形を装いながら、原発反対意見が吹き出すことを恐れた電力会社が関係者を動員して賛成意見が目立つように事前に準備したということです。はじめから賛成派を動員するのなら、そもそも公開シンポジウムなど行う意味はありません。

大きな権力や資金を持った役所や電力会社がなぜそのように姑息なことをするのでしょうか。日本のエリートは、異なった考えの人と率直に議論するということに慣れていないのです。役所の審議会には,官僚の考えを正当化してくれるような学者、専門家が集められます。批判的な立場の学者とは、議論の場さえ存在しません。増して、官僚や大企業から見れば無知蒙昧に見える地域住民を相手にまともに議論する意味などないというのが、日本のエリートの発想でしょう。


 今回の福島第一原発の事故はそうした異論との対話を拒否する独善的体質がもたらしたものと言えます。異論を謙虚に聞いていれば、原子炉に対する安全対策がもっと十分に行われていたはずです。はじめに結論ありという姿勢こそ、政策の失敗の原因です。

ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の正義をめぐる対話型授業は、日本でも大きな反響を呼びました。サンデル教授のすばらしいところは、学生の未熟な議論にも耳を傾け、少しでも意味を引き出そうとする姿勢です。正義とは何かは、答えのない問いです。正解のない問題を考えるには、様々な意見が対話を重ねていくしかありません。

幸福とは何か、豊かさとは何かなど、政策の究極的ゴールについても、正解はありません。だからこそ、民主政治の中では議論を重ねることが大切なのです。

第三文明2011年10月号


2011.09.05 Monday 12:50

国民投票と民主主義

 

 

 福島第1原発の事故以来、日本のエネルギー政策をどうするか、議論が高まっています。今までの政策も、一応手続き的には民主主義の中で決められてきました。しかし、実質的には一握りの専門家が議論を取り仕切り、政治家もそれを追認するばかりでした。また、原発を受け入れた地元自治体には巨額の交付金が投下され、金の力で議論を封じるという手法がまかり通ってきました。その意味では、原発推進は民主主義の不足の結果ということができます。

 したがって、これからのエネルギー政策を考える際には、民主主義を徹底するという発想が必要です。民主化の試みの1つとして、国民投票を求める運動があります。先日イタリアでは国民投票によって脱原発の路線が決まりました。日本の憲法では国会が唯一の立法機関と規定されているので、国民投票によって法律を変えることはできません。しかし、投票で表明された民意には大きな権威があります。

私も、国民(住民)投票を政治参加の1つの手段として持つべきだと思います。しかし、国民投票が成功するためにはいくつかの条件が必要です。何よりも必要なのは、投票までに時間をかけて、しっかり議論することです。投票という結果ではなく、各人が意思表示至るまでの議論と思考の過程こそが重要なのです。たとえば、一九九六年に新潟県の旧巻町で原子力発電所用地に町有地を売却するかどうかを問うた住民投票が行われました。また、二〇〇〇年には徳島市で吉野川可動堰を建設するかどうかの住民投票が行われました。いずれの地域においても、住民は勉強会を何度も行い、それぞれの施設の必要性、まちの将来への影響について議論を重ねました。そして、ノーという結論を出しました。従来の専門家主導の政策形成における民主主義の不在を、住民の議論が補ったのです。

しかし、議論の積み上げなしでいきなりイエス、ノーを問う投票を行えば、人々の気分や感情で重要な物事が決まる危険があります。AKB48の総選挙ならば好き嫌いで投票すればよいのですが、国民(住民)の命運を左右する政策課題についてはそうであってはなりません。たとえば、今年二月に名古屋市で行われた市議会解散の住民投票においては、河村たかし市長の推進する市民税減税という政策について、掘り下げた議論は存在しなかったように思えます。

二大政党は重要な政策について明確な姿勢を示せず、党の中に様々な意見が入り乱れている状態です。国民投票の運動を盛り上げていけば、必然的に政治家も自分自身の意見を持たざるを得なくなるでしょう。その意味では、直接民主政治が機能不全に陥っている政党政治を鍛えるという効果も期待できると思います。

第三文明9月号


2011.08.05 Friday 12:12

政治の危機と市民

 

 

 前号で予告した政治に対する市民の参加について論じる前に、この1か月の間に日本政治で起こった出来事について考えなければなりません。多くの国民が震災と原発事故で塗炭の苦しみを味わっている時に、国会議員が永田町に閉じこもって権力闘争にうつつを抜かすとは何事かと、日本人はみな呆れかえっています。

私自身、民主党の議員たちに、何度か政治家としての務めを誠実に果たすように訴えました。私はその時、アルベール・カミュの『ペスト』という小説の一節を紹介しました。ペストの流行で完全に封鎖された町と、放射能に脅かされる現在の日本が重なり合い、不条理とどのように戦うかに人間の値が現れると思ったからです。ペストの主人公、リウー医師は言いました。

「今度のこと(ペストの流行)は、ヒロイズムなどという問題じゃないんです。これは誠実さの問題なんです。こんな考え方はあるいは笑われるかもしれませんが、しかしペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです。(誠実さとは何かと問われて)僕の場合には、つまり自分の職務を果たすことだと心得ています」

 被災地住民のみならず、多くの日本人が職務を果たし、震災と原発事故という不条理と懸命に戦っています。それを見て自ら襟を正せないような政治家は、もはや国にとって有害な存在です。

 世論調査が示すように、国民は野党が政権を取っても、原発事故対策がうまく行くとは思っていません。現状は、与野党を超えた政党政治の危機なのです。すばらしいリーダーが出現して山積した問題を一挙に解決するなどというシナリオを描く方が、無責任です。むしろ、問題の根の深さを認識し、一歩一歩課題を処理していくという覚悟を決めなければなりません。一度決めたことはどんな弊害を露呈しても後戻りしない日本の政策決定システム、タコツボに入って自分たちの業界の繁栄だけを追求する官僚や学者、自立した思考を持つ人間を排除し、イエスマンが出世していく日本の組織の体質、つかみがねと引き換えに特定の地域に原発や基地などの矛盾を押しつける上から目線の政治の手法。こうした要因がつもり積もって、原発事故という人災は引き起こされたのです。

 私たちにできる政治参加の第一歩は、官僚や専門家の「説明」にすぐに納得するのではなく、分からないことは分からないと言い続けることです。福島県の子どもたちの放射線被曝の問題について、国が示した基準で本当に大丈夫かと不安を持った親たちが、文部科学省に談判に行きました。その結果、校庭の土を入れ替える作業が始まりました。リーダーや専門家の無力さが露呈した今、私たち自身が動くことが今までにないほど重要になっているのです。

第三文明8月号


2011.07.02 Saturday 14:11

政治と市民

 

 

 東日本大震災から3か月近くになろうとしていますが、原発事故への補償など複雑な問題が次々と浮かび上がる一方で、政府の対応は迅速に進んでいません。被災者はもとより、国民全体にいらだちが募る毎日です。私は長い間政権交代が日本を救うと主張してきました。大きな期待を担ったはずの民主党政権が無能力をさらけ出しているということは、私自身の議論も詰めが甘かったということを意味しています。縁あって本誌でしばらく連載を持つことになりました。この場を使って、私自身の間違いを振り返ることも含め、政権交代以後の日本の政治をどのように立て直すか、考えてみたいと思います。

 政権を担う政党が変われば世の中が変わるというのは、そもそも政党に対する過度な期待を前提とした議論でした。政党に対して、魅力的なマニフェスト(政権政策)を作れという運動も、あたかも市民が政策という商品を求める消費者であるかのように想定し、政党によい商品を作れと求めるものでした。市民は選挙の時に政党を選んで、後はその通りに進めろという受け身の発想が、そうした政治観の根底にあったと言わなければなりません。

 民主政治とは、数年に1度、選挙という市が立ち、人々が好きな商品やサービスを買って、後は専門家に任せるという政治の形なのでしょうか。実は、この問題は今から250年ほど前にルソーが厳しく批判した点です。彼は言いました。「イギリス人は自らを自由だと思っているが、それは選挙の時だけだ。」彼が批判したのは、当時の制限選挙制だったので、選挙の意味も今とは違います。それにしても、ルソーは代表民主主義のある落とし穴をついています。

 選挙の時に代表を選んで、後はよろしくというのでは、私たちは代表者に常に裏切られ続け、より魅力的に見える代表者を求めてさまようばかりでしょう。私は最近、政治の現状に絶望したくなると、堀田善衞という小説家のエッセーを精神安定剤として読んでいます。彼は、「民主主義とは、それ自体に、これが民主主義か?という幻滅の感を、あらかじめビルト・インされたform of government(統治の形態)なのであった」と書いています。民主政治とは、スーパーマンに政府を委ねることではありません。私たちと同じく短所を抱える政治家の仕事をやきもきしながら見るのが民主政治です。

言い換えれば、民主政治には自治という側面があるのです。私たち自身が日頃から政治を作り出すという作業に関わることで、政治家も緊張感を持って仕事をするのです。政治を作り出すといっても大げさな話ではありません。私たちに何ができるかを、次に考えてみたいと思います。

第三文明7月号


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