2019.04.11 Thursday 17:38

政治における論争と政策課題


 通常国会の予算審議では、経済分野の統計のずさんさが最大争点となった。ことはかなり専門的なテーマであり、世論の関心も高まらなかったので、政府は野党の追及をかわして逃げ切った感がある。しかし、経済の実態を測定する物差し自体にゆがみがあったという疑惑は続いている。『日本経済新聞』の昨年11月13日朝刊に、「国内総生産(GDP)など基幹統計の信頼性に日銀が不信を募らせ、独自に算出しようと元データの提供を迫っている」という記事があった。今回問題になった賃金統計のずさんさについてはすでに日銀が疑義を呈していたのである。政治的圧力が働いたかどうかは知る術もないが、安倍晋三政権の長期化の中で、政権が掲げる目標が達成されたという数字を拾い集めるという「問題意識」が所管官庁にあったことは事実であろう。

 アベノミクスが成果を上げているかどうかを国会で議論しても、水掛け論になる。むしろ野党は、短期的な政策の成否について議論するよりも、安倍政権が放置している長期的、構造的な問題について論争を提起し、自らの選択肢を示すべきである。

 人口減少が進むことは止めようのない現実である。その原因の1つは、1970年代後半に生まれた団塊ジュニア世代が第3次ベビーブームを起こさなかったことである。なぜこの世代がそれほど子供をつくらなかったかといえば、大学を出た時が金融危機や非正規雇用の急増の時期に重なり、低賃金で働く労働者が増えたことによる。この世代には引きこもりになった人も多い。人口減少が加速したのは人災である。

 その団塊ジュニア世代も40代後半である。20年後この世代が退職する時、十分な年金を受給できず、生活保護に頼る人の数が増えることが予想されている。財政、社会保障の破綻を防ぐために、この世代を社会に包摂し、稼ぎ、納税できるようにすることは時間との競争である。

 日本はいつまで巨額の国債を発行し続けられるのか、論争がある。経済学の常識に照らせば、国際収支の黒字が続く間は大丈夫ということになる。しかし、貿易収支は昨年後半から赤字基調で、今年1月だけでも1兆4千億円の赤字だった。投資収益があるから貿易赤字はカバーできるという議論もあるのだろうが、アメリカでバブルがはじけたらそれも終わりである。

 経済同友会代表幹事の小林正喜氏は、1月30日の『朝日新聞』のインタビューで、アベノミクスについて「この6年間の時間稼ぎのうちに、なにか独創的な技術や産業を生み出すことが目的だったのに顕著な結果が出ていない。ここに本質的な問題があります」と指摘している。まさに頂門の一針である。今、日本の貿易黒字は自動車が稼ぎ出しているが、これから電気自動車や自動運転の開発をめぐる大きな競争に立ち遅れれば、いよいよ稼ぐ産業はなくなる。そうなると、日本は国債消化を外資に頼る途上国型の財政に転落する。

 安倍政権の原発推進政策も、長期的な思慮を欠いた、電力会社を今だけ助けるものである。福島第一原発事故の処理費用について、政府は約22兆円と見積もっているが、民間シンクタンクは最大80兆円余りという試算を発表した。被害者の救済や放射能汚染の除去にまじめに取り組めば、1年分の国家予算に匹敵する費用がかかるのだろう。また、世界では化石燃料と原発という20世紀モデルから再生可能エネルギーに向けた大きな革命が起こっている。安倍政権の発想は、1960年に石炭を守れと主張して勝ち目のない戦いを挑んだ三井三池炭鉱労組と同じようなものである。

 要するに、アベノミクスで景気が良くなったか否かという議論は、日本が直面する巨大な課題とは無関係な、些末な議論である。この通常国会は参議院選挙前ということもあり、与野党対決の重要法案は提出されていない。予算は3月中に自然成立するのであり、国会議員には時間がたっぷりあるだろう。

 3月12日の『朝日新聞』朝刊に、こんな記事があった。
「野党4党が国会に提出した「原発ゼロ基本法案」が一度も審議されないまま、丸1年を迎えた。4月の統一地方選、今夏の参院選を前に、「脱原発」の争点化を避けたい与党が審議入りを拒み続けている。」

 原発をベースロード電源にするという政策について政府与党が確信を持っているのなら、原発ゼロを主張する野党と国会の場で議論すればよいではないか。議員立法については提案者が答弁席に立つ。日頃野党に攻められるばかりで鬱憤がたまっている与党議員にとっては、野党を責め立てる良い機会である。そうした機会を放棄して、数の力を頼んで議論自体を封じ込めるのは、議会政治の否定である。

 昨年秋に総裁選挙をしたばかりだというのに、自民党内では安倍総裁の4選もありうるという議論が飛び出した。権謀術数の中の観測気球だろうが、与党の政治家というのはこの種の権力闘争をするしか能がないのかと呆れる。

 政策論争の欠如に関しては、野党も自らの役割を見失っている感がある。参院選における1人区の候補者一本化についてはようやく合意ができた。しかし、野党が協力することで安倍政治をどのような意味で否定し、日本の経済と社会をどのように造り変えるか、具体的な議論はまだ見えてこない。国民民主党と自由党の合同の話も、国会審議で与党と妥協しがちな国民民主党に自由党の戦闘意欲を吹き込むのであれば意味があると思う。しかし、原発を始めとして国民民主党があいまいにしている政策についてもエッジを立てなければ、合同の意味はない。国会の内外で、野党こそ日本の現状に危機感を持ち、自らの構想を発信してほしい。

週刊東洋経済 3月30日号

2019.02.22 Friday 18:58

主観の過剰と安倍政治の危機


 通常国会の論戦が始まったが、冒頭から統計不正問題で政府は批判の矢面に立たされている。ことは近代国家にとって屋台骨に関わる危険信号である。この問題には、十数年の時間幅で日本をむしばんできた病理と、安倍晋三政権の経済政策が成功しているという演出に関わる部分の二面があると思える。

 毎月勤労統計調査のうち本来悉皆調査を行うべき大規模事業所についてサンプリングでお茶を濁すという悪習が、東京では2004年以降続いてきたことが明らかとなった。過去20年ほどの間の経費削減圧力の中、統計行政の現場は悉皆調査に代えてサンプル調査にして経費を浮かせるという悪知恵を働かせたのではないか。

 これは厚労省に特有の病理ではない。JR北海道では赤字経営の中、保線の経費を維持できず、現場の保線担当者は偽の検査数値を上げて、老朽化した線路を放置した。検査や統計という仕事は、それ自体派手な成果を上げる事業ではなく、現場担当者の良心に依存している。また、組織に資源が無くなれば、真っ先に削減の対象となる。しかし、データを捏造してごまかしを続ければ、JR北海道のように大きな脱線事故を起こす。国の経済にとってもこれは他人事ではない。また、東芝の不正経理や自動車メーカーの検査データ改ざんなど同種の事件は民間大企業でも起こっている。偽装という病が経済統計の世界にも及んでいたのかという驚きはある。それは、正確性や信頼性を二の次にする世の中の風潮の反映でもある。

 もう1つの問題は、安倍政権の成果を粉飾するために統計が操作されたのではないかという疑惑である。これについては、衆議院予算委員会で小川淳也議員が的確な追及を行った。統計の動揺に関しては、次のような経過があった。
2015年9月  安倍首相がGDP600兆円を目指すと宣言。
2015年10月 麻生太郎財務相が統計の精度を上げるようにと発言。
2016年6月 政府の「骨太方針」に統計改革が掲げられる。
2018年1月以降 厚生労働省は毎月勤労統計調査の原データに復元を加え、同年6月の対前年比賃金上昇率が3.3%と公表される。しかし、その後データ操作が明るみに出て、2.8%に訂正される。

 首相や財務省から直接的な指示があったかどうかはわからない。それにしても、経済データがアベノミクスの成功を示すように操作されていることをうかがわせる材料はたくさんある。粉飾決算を行った民間企業では、経営陣の責任が問われることのないように、現場の担当者が上の意向を慮って、利益を計上して各年度の決算をごまかすことを繰り返した。同じことが政府で行われたのではないか。

 統計不正問題は、安倍政治における虚偽、腐食体質の新たな現れである。森友・加計疑惑、働き方改革法案の基礎となったデータにおける虚偽、入国管理法改正の際の外国人技能実習生の実態の隠蔽、そして今回の統計不正である。今までの疑惑の際には、官僚が安倍政権に責めが及ぶことを防ぐために、証拠の隠蔽、文書の改ざん、国会答弁における虚偽など犯罪行為を繰り返してきた。安倍政権が長期化し、内閣人事局によって幹部人事を政権中枢が動かす状態が続いたために、中央省庁の官僚も事実の尊重、法の遵守という公務員の基本的な道徳をおろそかにし、権力に迎合する者が増えているとしか思えない。この点は、国会審議、関係者の招致によって徹底的に追及してほしい。

 安倍政治の大きな特徴は、主観が客観を制圧することである。日本銀行のデフレ脱却策は、失敗が明らかになったのちもひたすら不可能な目標を掲げ続けるという点で、太平洋戦争末期の本土決戦の発想と同じである。アベノミクスの成功という権力者の主観的願望が統計不正を招いた疑惑が濃いことはすでに述べたとおりである。主観過剰を歴史に投影すれば、過去の自国の行動を正当化、美化する歴史修正主義がはびこることとなる。安倍首相は正月休みに百田尚樹氏の『日本国紀』を読むとツイッターで書いていた。首相が歴史に学ぶということをどう理解しているかと思うと、情けなくなる。

 外交の世界でも、主観が客観を駆逐した独り相撲が続いている。日ロ間の領土紛争に決着をつけると張り切るものの、1月の日ロ首脳会談では平和条約締結に向けた具体的な前進はなかった。外交軍事大国のロシア相手に、安倍首相の主観が通じないのは当たり前であるが、日本の政治家のみならず、大方のメディアまでが幻想共同体に浸っていたことが明らかとなった。対米通商交渉では、TAG(物品貿易協定)なる新語をひねり出して国内世論を安心させようとしたが、ウィリアム・ハガティ駐日大使は、2月5日の朝日新聞のインタビューで、TAGという言葉を一蹴し、サービスの自由化も求めると明言した。トランプ政権は日本を大事にしてくれるというのも幻想である。

 歴史を振り返れば、日米開戦の失敗を見ればわかるように、主観の過剰は国を亡ぼす。政治家にとって、価値観、理想という主観は不可欠である。理想はこの世に実在しないから理想なのである。政治家の仕事は、虚栄や先入観を排して事実を客観的にとらえ、現実を一歩ずつ理想に近づけるために解決策を講じることである。「こうであって欲しい」と「こうである」の区別がつかなければ、政治は失敗する。だからこそ、戦後の民主化の中で統計が政府活動の重要分野として位置づけられたのである。

 メディアも、我々政治を論じる学者も、王様は裸だと叫ばなければならない最終局面に来ている。

週刊東洋経済 2月23日号

2018.10.23 Tuesday 18:27

安倍政治の転換の時

 前回の本欄で、自民党総裁選の地方党員票で石破茂氏が安倍晋三総裁に肉薄し、沖縄県知事選挙で野党系候補が勝てば、安倍政治の「終わりの始まり」のスイッチが入ると書いた。実際、この2つのことが起こり、政治の先行きはにわかに混沌としてきた。
 安倍首相のつまずきは、敵対する者を完膚なきまでに叩き潰すためにあらゆる権力を使うという強硬姿勢に起因している。選挙は権力闘争なので、力ずくで勝ちたいという欲望が出てくるのは仕方ない。それにしても、敵と味方の間に存在する中間的な有権者も投票に参加する以上、これらの人々の間に「やりすぎ」とか「品がない」という反発を生むような手法を取れば、強硬策は有害にもなる。
自民党総裁選では、公明正大な政策論争を回避して、陰湿に石破支持者を追い詰めるやり方が地方の党員の45%の反発を招いた。沖縄では、翁長雄志知事時代に辺野古基地建設をめぐって徹底的に問答無用の姿勢を貫いたうえに、今回の選挙では菅義偉官房長官や二階俊博幹事長、小泉進次郎氏を投入し、企業団体をきびしく締め付ける運動を展開した。与党系候補は携帯電話代の4割値引きという地方選挙には場違いな公約を繰り出した。沖縄県民はこうした上から目線の政治手法に厳しく反発したということができる。安倍首相は自民党の国会議員をほとんどイエスマンにすることはできたのかもしれないが、国民や一般党員をすべてイエスマンにすることはできない。それが民主主義である。
この2つのつまずきに対する安倍首相の解答が、10月2日の党人事と内閣改造であった。しかし、人選を見る限り強権的手法を反省しているとは思えない。それどころか、国民に対する挑戦と同類の政治家で政府与党を固めるという点で、権力偏重の上塗りをしている感がある。
まず、森友・加計問題に代表される政治腐敗や行政のゆがみに対する反省が全く実行されていない人事といわざるを得ない。麻生太郎財務相は留任した。さらに、不正献金疑惑の甘利明氏が党の選挙対策委員長に起用された。1997年、当時も一強多弱と言われた橋本龍太郎首相は内閣改造で、ロッキード事件灰色高官の佐藤孝行氏を入閣させ、世論の大きな批判を浴びた。これが橋本政権の終わりの始まりとなった。森友・加計問題に対する国民の疑念はまだ続いている。国民の倫理観を甘く見たら、安倍政権も厳しい批判を浴びることになる。
新内閣の最も深刻な問題点は、近代国家における自由、個人の尊厳、民主主義などの基本原理や歴史認識についてのグローバル・スタンダードを共有しない偏狭な政治家が多数登用されていることである。唯一の女性閣僚で新内閣の目玉であるはずの片山さつき氏は、天賦人権論を否定し、生活保護受給者攻撃の先頭に立ったことがある。平井卓也氏はSNSで福島瑞穂氏を「黙れ、ばばあ」と罵倒したことがある。原田義昭、桜田義孝の両氏は、南京虐殺や従軍慰安婦の存在を否定する言動をし、河野談話や村山談話に反対していた。柴山昌彦文科相はさっそく教育勅語を現代風にアレンジしたいと発言した。初入閣を果たした閣僚には、自己中心的ナショナリズムと復古主義を安倍首相と共有する政治家が多く選ばれている。今後憲法改正論議が始まるのかもしれないが、閣僚の歴史修正主義は国内外の批判を招き、安倍首相の対中国、北朝鮮外交の足を引っ張る危険性がある。
個人の尊厳を否定する政治家が与党にいることは、杉田水脈議員のLGBT差別発言で明らかとなった。この種の非常識な政治家や言論人がほかならぬ安倍首相を取り巻き、しばしばメディアで意気投合していることは、国辱である。安倍首相がそれを恥じていないことは、今回の組閣と党人事で明らかになった。
安倍首相はこれからの3年間の政権運営について、中間的な有権者から幅広い支持を集めるよりも、アベ大好きの保守的支持層の忠誠心に応えるという路線を取ったように思える。党の要職に稲田朋美、下村博文両氏を据え、憲法改正発議に向けて議論を始めるという構えである。しかし、公明党は改憲発議に消極的である。実現可能性が低いにもかかわらず、中核的支持層を喜ばせるためには改憲を最優先課題にせざるを得ない。同類の政治家で政府与党を固めた安倍政権は、世論から乖離し、自暴自棄で改憲の旗を振り続けるかもしれない。そこに閣僚のスキャンダルが重なれば、2007年の第1次安倍政権の轍を踏む可能性もある。
ただし、安倍政権が危機に陥るかどうかは、野党側の構えにかかっている。第1次安倍政権の時には、小沢一郎氏のリーダーシップの下、民主党が存在感を持っていた。そして、2007年の参院選に向けて着々と準備を進めていた。しかし、現在は野党分裂の状況の下、政権交代への備えは全くない。最近になってようやく各野党のリーダーが一人区での協力の必要性を説くようになった。
度々書いたことだが、野党第一党の立憲民主党は政党同士の舞台裏での提携、談合を否定し、野党第一党としての地歩を固めることを最優先しているように見える。しかし、そんな時間的余裕はない。安倍政権は改憲を実現するために、あるいは政権の存続のために来年の参院選に衆議院の解散をぶつけてくるかもしれない。そうした最悪のシナリオまで考えて、野党協力の態勢を準備すべきである。
最後に、最近の政治報道に関してNHKの異常さを指摘して起きた。沖縄県知事選挙の日は台風襲来が重なって、知事選報道が短くなったのは仕方ない。それにしても、BSニュースでは知事選には全く触れず、日馬富士の引退を伝えた。1日夜からは、入閣内定者を速報で紹介し、改造は特別編成で延々と報じていた。独裁国家の国営放送のような異常さである。報道機関の独立も問われている。

週刊東洋経済10月13日号

2018.10.23 Tuesday 18:18

安倍一強の構造


 日本の議会政治の劣化を見せつけた通常国会が終わり、政治関係者の関心は9月の自民党総裁選挙に向かっている。後述するように、政治批判が広い共感を得ることが困難な時代ではあるが、そうは言っても安倍晋三政権の犯罪的所業と自民党の荒廃について、私はしつこく批判し続けたい。財務省の人事異動では、文書改竄に関わって処分された人々が何事もなかったかのごとくに事務次官や主計局長に昇進した。国民をなめた人事である。財務官僚は信頼回復や文書管理の改革を訴えたが、空しいばかりである。行政に対する信頼回復のためには、森友疑惑の真相究明が不可欠であり、そこを無視した改革案など自己満足にすぎない。
 自民党の杉田水脈衆院議員が雑誌で、LGBTの人々は子供を産まないという意味で生産性が低く、それゆえ政策的な支援は不必要と述べて批判を集めている。私は、杉田議員がこの種の差別発言をしても驚かない。問題は、彼女のこのような差別主義的思想を承知の上で比例単独候補に引き立て、国会議員にしたうえで、暴言があっても咎めない自民党にある。人間の生き方はいろいろあるべきだ。しかし、いろいろな生き方を否定し、特定の生き方を他人に押し付けるような人物には、民主政治における居場所を与えてはならない。今の自民党に蔓延しているのは、人間の尊厳を否定する差別主義も1つの考え方として許容する底知れぬシニシズムである。
 ここまで安倍政権批判を書きながら、自分自身壁にぶつかることを感じる。この種の議論をいくら繰り返しても、安倍政権はびくともしない。楽々と総裁選で勝利し、長期政権を続けるのだろう。各種の世論調査を見ても、個別の政策について問われれば反対や疑問を唱える市民は多いが、日本人の多数派は無関心も含めて安倍政権を受容している。あるいは、政権を批判する野党や私のような言論に共感しない。
私自身が悩んできたこの問題について、最近、目から鱗が落ちる様な論文を読んだ。政治思想史研究者、野口雅弘氏の「「コミュ力重視」の若者世代はこうして「野党ぎらい」になっていく」(『現代ビジネス』7月13日)である。最近の大学教育ではコミュニケーション能力が重視される。それは、他者との話し合いを軋轢なく円滑に進める能力であり、発言の内容よりも他者に同調しながら、対立を回避することを重視する。それを前提に、野口氏は次のように指摘する。
「もしコミュニケーションの理想がこうしたものになりつつあるとすれば、ここに「野党」的なものの存在の余地はほとんどまったくない。野党がその性質上行わざるをえない、いま流れているスムーズな「空気」を相対化したり、それに疑問を呈したり、あるいはそれをひっくり返したりする振舞いは、「コミュ力」のユートピアでは「コミュ障」とされてしまいかねない。このタイプの政党のプレイヤーは、ある特定課題に「こだわり」を持つ人たちや、ある法案に必死に抵抗しようとする勢力を排除する。」
「「コミュ力」が賞賛される世界では、野党が野党であることで評価してもらえる可能性はない。違いや軋轢を避けたり、笑いにしたりするのではなく、その対抗性をそれなりに真面目に引き受けること。相手の批判に腹を立てても、それなりにそれと向き合うこと。こうした可能性の乏しいコミュニケーションは同調過剰になり、表層的になり、深まらず、退屈で、そして疲れる。いまの政局の行詰まり感は、「コミュ力」のユートピアが政党政治の世界に投影された結果の成れの果てではないか。」
 野口氏の言う若者の対立忌避の政治態度は、他の世代にも存在するのだろう。空気を読むことは大人の社会の基本マナーである。大学でコミュニケーション能力が重視されるようになったのは、大学が思考を訓練する場ではなく、就職予備校になったゆえである。4年のうちの半分を就職関連の活動に費やすわけで、若者は早くから大人の常識に同調することを覚える。その意味で、表面的な同調に自己を縛り付ける態度は社会の反映である。
 安倍首相は、意図的かどうかはわからないが、野党や批判的言論人を「特定の課題にこだわる」浮いた存在に追いやることに成功している。首相は憲法改正にこだわっているのだが、権力者のこだわりは同調主義社会では問題視されない。首相が論理を無視して集団的自衛権行使容認や改憲を追求すれば、反対する側は先祖返りしたような護憲の運動方法を使わざるを得ない。それで一定数の支持は得られるが、広がりはない。野党の政治家にはもう一度政権交代を起こして世の中を変えたいという意欲を持っている者もいるのだが、反対が前面に出ると、白眼視される。
 野党がこの隘路を抜け出すには、来年の参院選で改憲勢力の3分の2を阻止して改憲論議に決着をつけたうえで、政権交代に向けたビジョンを示すしかない。現状で政権構想を語るなら、立憲民主党と国民民主党を中心とした連立政権を作るしかないのだが、それはあまりに遠いゴールである。参院選における協力についてさえ、議論は始まっていない。もとは民主党、民進党で仲間だった政治家も、別の党に分かれれば、それぞれの党の論理で行動する。立憲民主党からは、大都市複数区と比例で議席を増やせればよいという本音も聞こえてくる。
 参院選を有意義なものにするためには、野党が協力してすべての1人区で与野党対決の構図を作り、安倍政治に批判的な市民に対して選択肢を提示しなければならない。野党が安倍政権という大きな敵を見失って、矮小な勢力争いに没頭するなど、言語道断の所業である。とりわけ野党第一党の立憲民主党の責任は大きい。野党協力の先頭に立つべきである。

週刊東洋経済8月11日号

2018.07.03 Tuesday 18:33

不条理劇と化した議会政治

 安倍政治における言葉の無意味化については本欄でたびたび指摘してきた。しかし、病理は深刻になる一方である。5月14日の衆議院予算委員会で国民民主党の玉木雄一郎共同代表が次のような重要な質問を行った。安倍晋三首相は「日米は百パーセント一体」と強調するが、米朝首脳会談において北朝鮮がICBM(大陸間弾道弾)の廃棄を約束すれば米国は本土への脅威がなくなったと満足し、手打ちを行う可能性がある。しかし、中近距離のミサイルが残されれば日本にとっての脅威は続く。この点について首相はどう考えるか。玉木氏の質問のさなかに麻生太郎副総理がヤジを飛ばし、議場は騒然となった。その混乱の中で時間切れとなり、玉木氏の質問に安倍首相は答えないままに終わった。

 痛い所を衝く質問に対してヤジを飛ばしてうやむやに済ませるということは、議会政治の破壊である。小学校の学級会でも、議論のルールはもっとまじめに守っているだろう。こんな愚劣な人物を副総理に据える安倍内閣は国会を学級崩壊状態に陥れた元凶である。
 
 現憲法下では、野党議員の質問やメディアにおける政権批判の言論を政府が力ずくで弾圧することはできない。わざわざ力を振るわなくても、相手を馬鹿にし、きかれたことに答えず、言葉の意味を崩壊させて議論を不可能にすれば、批判する側は次第に疲れ、あほらしくなって、批判をやめるかもしれない。それこそが政府・与党の狙いだろう。これは安倍政権が発明した21世紀型の言論弾圧ということもできる。
政治の現状を見ていると、私は、1950年代にブームとなったベケット、イヨネスコなどによる不条理劇のさなかに放り込まれたように感じる。不条理劇に関するウィキペディアの次の説明は、日本政治にそのまま当てはまるではないか。

「登場人物を取り巻く状況は最初から行き詰まっており、閉塞感が漂っている。彼らはそれに対しなんらかの変化を望むが、その合理的解決方法はなく、とりとめもない会話や不毛で無意味な行動の中に登場人物は埋もれていく。(中略)言語によるコミュニケーションそのものの不毛性にも着目し、言葉を切りつめたり、台詞の内容から意味をなくしたりする傾向も見られる。」

 安倍首相の膿を出し切るという発言、セクハラは罪ではないという麻生副総理の発言、「記憶の限りでは」という言葉をかぶせれば、どんな嘘をついても構わないといわんばかりの柳瀬元秘書官の発言。どれも不条理劇の中のセリフである。
 
 国民も不条理に対して怒るよりも、それに慣れていく様子がうかがえる。5月19,20日の週末に行われたいくつかの世論調査では、内閣支持率が若干上昇に転じた。森友学園、加計学園をめぐる疑惑について、人々が政府の説明に納得しているわけではなく、安倍政権が最重要法案と位置付ける働き方改革関連法案についても支持が大きいわけではない。例えば、朝日新聞の最新の調査では、安倍首相や柳瀬唯夫元総理秘書官の説明で加計問題の疑惑が晴れたかという問いに対して、「疑惑は晴れていない」が83%、「疑惑は晴れた」は6%、森友学園や加計学園を巡る疑惑解明に、安倍政権が「適切に対応していない」と答えたのは75%、「適切に対応している」は13%だった。また、働き方改革関連法案は、「今の国会で成立させるべきだ」19%、「その必要はない」60%だった。
 
 これだけの腐敗や不祥事が相次いだら、内閣支持率は30%を割るのが普通である。この政権、官僚の弛緩ぶりは、リクルート疑惑で政界が揺れた竹下登政権末期を思い出させる。しかし、内閣支持率は前月の31%から36%に上昇した。不支持が支持を上回る状態が3か月連続で続いたものの、支持率低下が底を打ったので、政権側には不思議な余裕さえ感じられる。通常国会の会期は残り1か月となったが、働き方改革関連法案やカジノ解禁を進めるIR関連法案を強行採決によって成立させるという観測も流れている。疑惑、不祥事をむしろ記憶できないくらいに続ければ国民もマヒするだろうと、政権は高をくくっているのかもしれない。

 自民党内では首相を脅かす有力な反主流派は存在しない。朝日調査で、今年の秋に自民党総裁の任期が切れる安倍首相に総裁を続投してほしいかという問いに、「続けてほしくない」は53%、「続けてほしい」は33%だったが、自民支持層に限ると「続けてほしい」62%、「続けてほしくない」28%だった。このまま国会を乗り切れば、自民党支持者の応援を得て安倍3選の可能性は高まる。

 権力維持という観点だけから見れば、国会で閣僚や官僚が不条理劇を演じていればよいのだろう。しかし、それは日本政治の正統性を融解させ、内外の課題に対する解決を遠ざける。安倍首相は、秋以降憲法改正発議を進める意欲を捨ててはいないのだろう。これほどまでに道義と論理を破壊した政治指導者が、道義と論理の体系である憲法の瑕疵をあげつらい、その改正を叫ぶというのも不条理劇である。

 日本の議会政治を守るのは、選挙における常識的な民意の表現しかない。安倍政権不支持が底を打ったのも、代わりになる野党が四分五裂状態で頼りにならないという事情が大きく作用している。1つの試金石は、6月10日投票の新潟県知事選挙である。2年前の参議院選挙以来、市民運動と野党の協力で候補を一本化し、いくつかの選挙を勝利してきた場所だけに、政権対野党という対決構図でどちらが勝つか注目される。また、立憲民主党と国民民主党が一体化するのは不可能なことは明白である。しかし、来年の参議院選挙における野党の選挙協力の構想をもって両党は他の野党を巻き込みながら議論を始めるべきである。

週刊東洋経済 6月2日号

2018.03.27 Tuesday 17:17

傲慢という落とし穴

 イギリス労働党の政治家、閣僚経験者で医師でもあったデヴィッド・オーウェンは、後輩であるトニー・ブレアとジョージ・ブッシュがイラク戦争を始めた政策決定を分析し、The Hubris Syndrome(傲慢症候群)という本を書いた。権力は為政者にとって依存症に陥らせる薬物のようなものであり、長年権力に居座ると傲慢こそが命取りになる。オーウェンが指摘するまでもなく、これは古代ギリシャ以来語り継がれた真理である。今、裁量労働制の撤回に、森友学園への国有地売却をめぐる公文書の改ざんという疑惑も浮上し、安倍晋三首相もこの病理に陥った感がある。

 昨年夏、通常国会が森友問題で紛糾し、共謀罪の強行採決で閉幕した直後、安倍政権の支持率が急に下がり始めた状況の中で、当時の民進党の議員と議論したことを思い出す。彼は、「横綱相撲を取られていたら、野党は手も足も出なかっただろう」と述懐していた。横綱相撲とは、野党からのまっとうな質問に対しては正面から受け止め、間違いがあれば早期にそれを認めて謝罪し、是正すべきところがあれば改めるという姿勢である。自らも誤る可能性があることを前提とし、誤りに対して誠実に対処するという姿勢こと、政治に対する信頼を作り出す。モリ・カケ問題について政府の側に一点の曇りもないというのは度の過ぎた強がりであり、自己正当化であった。安倍首相や政府与党の指導部は、森友疑惑の深刻さと国民の正義感の健全さを軽く見ていたと言うしかない。

 昨年7月の東京都議会選挙における自民党の大敗は、モリ・カケ問題に表れた権力の腐敗と、共謀罪に現れた強引な政権運営に対する人々の反発ゆえであった。政権支持率はしばらく不支持率を下回った。その後、北朝鮮によるミサイル発射、民進党の分裂などの要因があり、総選挙での勝利の後は政権が安定を回復したように見える。しかし、それは政権地震の反省や努力で勝ち取ったものではない。政権の基盤は依然として脆弱である。

 森友疑惑や裁量労働制と労働時間をめぐるデータのねつ造問題は政治、行政の両面で大きな問題を引き起こしている。まず、行政において近代官僚制の崩壊といってもいい病理が起こっている。マックス・ウェーバーの官僚制の規定の中で、文書による行政はもっとも基本的な原則としてあげられている。調査データの中から政府が掲げる政策を正当化するようなものだけを恣意的に選び出して資料をこしらえるなど、近代官僚にあるまじきでたらめである。また、いったん確定した文書を、あとから政府の指導者や官僚組織自身にとって都合の良いように書き直すことが横行するならば、国を挙げて後出しじゃんけんを奨励するようなものである。

 近代行政を前近代の恣意的行政から分かつのは、法律に基づく行政であり、法の下の平等である。権力者に近い人を行政機関が予算配分や許認可に関して、制度・手続きを無視して特別扱いするということは、日本で言えば江戸時代以前への逆行である。首相や閣僚が関係省庁に特別扱いを明示的に指示したかどうかはわからない。少なくとも、官僚が政権中枢の意向を慮って特別扱いをしたことは事実である。悪しき意味での党派性を排し、公平な行政を確保するための政治と行政の間の隔壁が崩れている。内閣人事局の運用について、見直しを加えるべきである。

 この隔壁が崩れたことを悪用して、新たに自分たちの権益を追求している官僚もいる。地道な産業政策は効果なく、手っ取り早く政府の規制を取り払い、政権に近い人々に新しい利権を提供することが「戦略」となった。政権の目玉政策という看板を掲げれば、道理のない政策も推進できる。この種の戦略を打ち上げる官邸中枢の産業競争力会議、未来投資会議、国家戦略特区諮問会議などの会議体が、加計学園問題の起源である獣医学部の新設や、裁量労働制や高度プロフェッショナル制度の導入などの労働法制の一層の規制緩和を打ち出したのである。こうした政策が誰の負担において、誰に利益を与えるか、一連の疑惑をめぐる議論から明らかになっている。

 政治の側で公平性、合法性、正当性が捨て去られることの問題については、昨年6月の本欄で既に指摘した問題が一層悪化しているということである。そこで述べた家産国家という問題、つまり権力者において公私の分離がなくなり、権力を私的な利益のために恣意的に使うことについて歯止めがなくなる現象について、安倍首相は全く反省していないようである。閣議決定で私人と認定された首相夫人が名誉校長を務めていることが、森友学園に対する国有地売却を財務省職員が「特別」と表記した原因である。こうした疑惑に対して説明責任を全うできないなら、首相には国政の最高指導者たる資格はないと言わなければならない。

 権力者が自ら襟を正そうとしない以上、国会論戦で野党が追及するしかない。野党の姿勢について、一部のメディアや識者の中にはスキャンダル追及だけではだめだとか対案・提言が必要だと言った利いた風な議論がある。こうした議論は、問題状況を無視して野党の特定のモデルを押し付けるもの、いわば元に火が燃え盛っている建物について消火するのではなく、耐火構造への転換の設計図を描けと言うようなものである。その結果は、政府与党を利することになる。労働法制やエネルギー政策に関して野党は提案を作ろうとしている。そうした政策論は大いに進めればよい。しかし、政治の腐食、行政の崩壊に対しては、現状を明らかにし、その責任を追及することこそ野党の使命である。

 最後に1つ強調しておきたいのは、家産国家への逆行を推し進めるような為政者に憲法をいじる資格はないということである。疑惑の本質が明らかになればなるほど、安倍政権下の憲法改正には反対という世論が強まるに違いない。

週刊東洋経済 3月17日号

2017.12.23 Saturday 15:36

手遅れになる前に

 2017年も終わろうとしている。10月の総選挙で安倍政権がさらに数年継続することが確実となった。しかし、日本が直面している様々な政策的難題に対して政治が的確に取り組んでいるかと言えば、憲法改正を始めとする空騒ぎばかりが続いているように思える。今年は、1997年の金融危機から20年、失われた時はいつの間にか20年を超え、このまま政治が無策であれば30年に届くだろう。この20年間は、社会・経済の病理は緩慢に進行してきたが、ある臨界点を超えれば手の施しようのないような速度で悪化するかもしれない。

12月7日の朝日新聞朝刊に、旭化成社長の次のような話が載っていた。
「当社では、30代後半から40代前半の層が薄くなっています。2000年前後に構造改革で採用を極端に減らしたためです。その世代が中間管理職として一番パワーをもたないといけない時代にさしかかってきました。キャリア採用もしていますが、なかなか人が集まりません。」

 目先のコスト削減のために人材育成を怠った結果の人手不足は、経営戦略の失敗であり、自業自得である。しかし、この構図は1つの企業にとどまるものではなく、日本全体の困難を象徴している。

 人口減少は成長力の消滅、国内市場の収縮、地方の空洞化、財政や社会保障の持続不能など多くの問題の根源である。なぜ2000年代半ばから人口減少が始まったのか。直接的な原因は、1970年代中ごろに生まれたいわゆる団塊ジュニア世代があまり子供を作らなかった点に求められる。70年代中ごろには団塊世代が子供を産み、出生数は1年に200万人程度だった。しかし、その30年後には第3次ベビーブームは起きず、出生数は100万人強が続いた。
 ではなぜ団塊ジュニア世代は子供を作らなかったのか。彼ら・彼女らが社会に出た90年代中頃は、バブル崩壊後の不況、グローバル化に煽られた「構造改革」の中で、雇用の劣化が急速に進んだためである。企業にとってはコスト削減だが、若い人々にとっては人生設計が出だしから狂うことを意味する。

 この世代の人々はのちにロスト・ジェネレーションと呼ばれ、同時代の日本に厳しい批判を浴びせる論客も現れた。最も重要な論点は、自己責任の欺瞞性である。企業における終身雇用や地域に対する公共投資による雇用保障策が崩壊する中、若い人々には自力で生きていくことが求められた。しかし、雇用システムが変化したことは若者の責任ではない。

もちろん、企業は生き残りのために終身雇用を変えたのであり、やむを得ないともいえる。個々の企業の生き残り策が社会全体の持続可能性を損なうことは、合成の誤謬の典型例である。そして、政治は合成の誤謬を回避するためにある。非正規・低賃金労働が増加する時代においては、政府が低賃金でも人間らしく生きていけるような社会の基盤を構築すべきであった。人件費削減で上がった利益の一部は社会基盤整備のために吸い上げるべきである。デンマークやオランダが示すように、雇用の柔軟化は安定的な社会保障を必要とするのである。しかし、日本の政府はこの15年間、民間企業と同様のコストカット、ダウンサイジングを進めた。

社会の疲弊が覆い隠せなくなって、ようやく安倍晋三政権も対応を始めた。来年度予算では「人づくり革命」というスローガンの下で、2兆円の政策パッケージを打ち出すとのことである。しかし、これは総選挙直前に泥縄で用意された数字ありきのスローガンであり、中身は整合性のないものである。保育と幼児教育の無償化は結構なことだが、問題は保育の供給力が圧倒的に不足していることにある。無償化による需要の喚起よりも、供給体制の整備に資金を集中することこそ急務である。保育士の待遇改善として1%の賃上げもうたわれているが、二階から目薬の類である。
高等教育についても無償化の取り組みを始めるとしており、大人向けのリカレント教育のためにも今後5000億円を投入するそうである。リカレント教育は大学・大学院で提供するはずだが、政府は今の大学の疲弊を知らないのか。タイムズ・ハイアー・エデュケーションが9月に発表した世界大学ランキングでは日本の大学は順位を下げ、最上位の東京大学でさえ74位だった。この十数年続いてきた大学予算の削減が、大学の知的体力の低下という具体的結果をもたらしている。学費軽減やリカレント教育を拡充しても、大学が質の高い教育サービスを供給する能力は低下する一方である。
 安倍首相は総選挙で国難という言葉を繰り返していた。本当の国難は日本が直面している難題に対して政治が思い付きを並べて、真剣に取り組もうとしない点にある。有効な政策を作るためには、問題の原因を的確に探り当て、因果関係の分析に基づく解決策を考えることが必要である。これをエビデンス・ベーストの接近法というが、安倍政権にはエビデンスに基づくという発想がない。家庭生活の充実と次世代再生産のためには、若い世代の賃金上昇と雇用の安定化が不可欠だが、政府は親学という右翼的イデオロギーに基づく家庭教育支援法という怪しげな法律を作ろうとしている。また、働き方改革の名のもとに残業代ゼロを合法化する労働基準法改正を進めようとしている。これらの政策が実現すれば、若い人々の自由な生活は一層困難になる。

 2010年代の残りの時間を憲法改正のために使うとすれば、それこそ失見当識の極みである。東アジアの国際環境が厳しいことは事実だが、朝鮮半島問題には国際協調で政治的解決を探求するしかない。21世紀の今、国は外敵によって滅ぼされるのではなく、内部の病理によって自壊する可能性の方がはるかに大きい。日本に残された時間は長くない。社会経済の具体的な問題について、手遅れにならないうちに、イデオロギーや先入観を排した現実的な接近を行うことが政治再生の第一歩である。

週刊東洋経済 12月23日号

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