2020.03.11 Wednesday 21:27

亡国の安倍政権


 衆議院予算委員会で、野党議員が桜を見る会や前夜祭をめぐる従来の安倍晋三首相の説明の矛盾を追及している。2月17日の衆院予算委員会で、辻元清美議員は、ANAインターコンチネンタルホテル東京は過去7年間、政治家関連を含むあらゆる会合について見積書を発行し、宛名空欄の領収書は発行したことがないとの回答を元に、個々の参加者がホテルと契約し、宛名空欄の領収書をもらったという首相答弁の虚構を衝いた。首相は、ホテルの説明は一般論だという主張を繰り返し、「信じていただけないということになれば、そもそも予算委員会(の質疑)が成立しない」と述べた。予算委員会は事実に基づく討論の場ではなく、教祖による説教の場になったのか。

 同時に、新型コロナウィルスの感染拡大が明らかになった。こんな危急の時に桜を見る会の追及などすべきではないという声もある。しかし、桜を見る会をめぐる疑惑を自ら払拭できない政府だからこそ、新型コロナウィルスに対しても適切な政策を打ち出すことができないのである。政治倫理上の退廃ではなく、誠意と統治能力の欠如が政治資金疑惑にも伝染病対策にも表れている。

 安倍首相の発想の根底には、子供じみた、あるいは誇大妄想的な全能感があると私は考える。近代国家の為政者は法に従う存在だが、安倍首相は自分についてルイ14世のごとく、法を超越する存在だと思っている。集団的自衛権の行使容認の閣議決定から、最近の東京高検検事長の定年延長に至るまで、解釈を変えたと言えば自分の行動をすべて正当化できると信じている。全能感が過去に向かえば、自分に都合の悪い事実を改竄することもいとわない。これは安倍政権の公文書管理に対する恣意的な対応を見れば明らかである。全能感が未来に向かえば、客観的な根拠のない政策を振り回し、世の中を救うという自己陶酔に浸る。新型コロナウィルス対策はその最新例である。

 その経緯を簡潔に振り返っておく。1月31日の衆院予算委員会で安倍首相は感染者の入国を拒否すると答弁した。この段階の政府の方針は水際防御で、あたかもこれが政治的英断だと言わんばかりに、2月4日に寄港したクルーズ船を横浜港に留め置くことを決定した。政府はウィルスの危険性を軽視しており、検査や治療の体制を拡充することにも当初は意欲を持っていなかった。加藤勝信厚労相は、2月9日のNHK番組で、「空気感染しないので、さらにいろんな医療機関で(患者を)受け入れることが可能だ」と述べた。検疫官が感染したことはこうした楽観の帰結である。クルーズ船の乗客のごく一部の体調の悪い人について検査を行い、感染したことが明らかとなれば入院させるという小出しの対応が続いたが、大多数の乗客は放置され、その間に感染が広がったことは明らかである。

 初動の段階でなぜ問題を過小に見積もろうとしたのか、その政治的意図は憶測するしかない。国民の間に不安を広げたくないとか、東京オリンピックを控えて日本の衛生環境が悪化したというイメージを広げたくないという思惑があったのだろう。

 さらに、日本の官僚の病理である「プロクルステスのベッド」の思考法が問題を悪化させた。プロクルステスとはギリシャ神話に出てくる追剥で、旅人を捕らえて自宅のベッドに縛り付け、はみ出す手足を切断するという残虐な趣味を持っている。これは、人間は先入観や手持ちの資源に合わせて問題を都合よく切り取るという、認識が陥る罠を描く寓話である。今回は、狭いベッドに相当するのが政府の持つ検査、治療の資源であり、旅人に当たるのはコロナウィルス感染者とその予備軍である。厚労省は当初、国立感染症研究所などの公的機関で検査するので数的限界があるとして、クルーズ船の乗客を放置した。しかし、検査に必要なRT-PCRという機器と人材は多くの大学や民間検査機関に存在している。ようやく2月18日からそれらの機材をフル稼働して、1日3800人の検査が可能になったと発表したが、遅きに失した措置である。厚労省が、当初なぜ国立の研究機関による検査に限定したのかは理解できないが、官僚の発想が政治家による問題の隠蔽を助長したことは明らかである。

 プロクルステスのベッドという発想は、水俣病以来公害や薬害事件で繰り返されてきた。最近よく聞く「政治主導」は、本来そうした官僚的発想の限界を打破するための指導力のはずである。今回の事例で言えば、当初の段階で、国費を投入して検査機器をフル動員するとともに、感染を封じ込める治療施設を整備するという政治的方針を明示すべきであった。しかし、安倍政権において政治主導は、政治家の空威張りと自己正当化を意味するばかりである。そして、全能感に浸った権力者に追従する怯懦な官僚が無益な政策を後押しし、人命を危険に曝している。権力者の全能感は、ウィルス相手には無意味である。

 冒頭に紹介した辻元質問に対する安倍首相の答弁に関して、2月18日の朝日新聞は、ANAホテルが同社の取材に対し、「首相側に「『一般論として答えた』と説明しましたが、例外があったとはお答えしておりません。『個別の案件については営業の秘密にかかわるため、回答に含まれない』と申し上げた事実はございません」と首相答弁の一部を明確に否定したと報じている。

 繰り返す。桜を見る会は些末な問題ではない。政治家や行政官の行動を記録し、それを保存する。政府は国会で議員と国民に対して事実を説明する。公職に就く者はそれぞれの職務や活動に関する法規を遵守するなど、近代国家の基本動作が安倍政権の下で捨て去られているのである。こんな政府が重大な政策課題に答えることができるのか。野党だけではなく、自民党、公明党の議員も政治家としての良心に照らして、いかなる行動をとるべきか考えてもらいたい。

週刊東洋経済2020年3月7日

2020.03.11 Wednesday 21:25

2020年の政治


 2020年は、自由民主主義の危機とともに始まった。20世紀前半のファシズムと戦争の悲惨な経験を経て、20世紀後半においては自由民主主義が先進国にとっての自明の政治体制となった。民主主義は多数の意思によって権力を構成し、社会を統治する仕組みである。しかし、ヒトラーの台頭に見られるように、多数者が偏見や感情のままに行動し行政府の支配者にすべての権力をゆだねれば、独裁が成立する。それゆえ、第2次世界大戦後は自由主義の原理と民主主義を結合し、行政権力の暴走を防ぎ、人権と自由を擁護する穏健な民主主義が成立した。自由主義の原理とは、具体的には議会による討論を通した権力監視を確立し、行政権は法の支配によって制約されるという形をとる。

 ドナルド・トランプ、ボリス・ジョンソン、安倍晋三という3人の権力者はこの自由主義の原理を無視して支配を行っている。米国では、権力乱用と議会妨害のかどで下院が大統領の弾劾決議を行い、上院での審理が始まった。かつて政権内部で働いた人物が大統領の不当な行為について証言しており、弾劾は濡れ衣とは言い切れない。米国がイランに加えた攻撃は、国際法を無視した暴挙であり、世界を不安定にする。英国では昨年末の総選挙でジョンソン首相率いる保守党が圧勝したが、その源は不正確な議論で国民感情を煽り、EU離脱を決定した国民投票にある。離脱に伴う混乱を収拾することを単一争点に据えてジョンソンは勝利した。しかし、彼自身国民投票で不正確な主張によって国民感情を煽った張本人の一人である。そして、日本では安倍政権が史上最長記録を更新する中で、桜を見る会をめぐる事実隠蔽や虚偽答弁、カジノをめぐる汚職の摘発、河井克行前法相夫妻をめぐる選挙違反疑惑など、法に対する敬意の欠如が蔓延していることが明らかになっている。

 多数者の支持に基づいて権力を獲得した指導者が、法を軽侮してほしいままの支配を行える背景要因も共通している。1つは、20世紀後半に確立したはずの人権や平等の尊重、多様性に対する寛容など自由主義の原理に対する飽きと、強いリーダーへの待望がある。また、グローバル資本主義が猛威を振るい、雇用の劣化や格差の拡大が進む中、強く見える指導者はナショナリズムの象徴を打ち出して、反EU、アメリカ第一主義、韓国への強硬姿勢など、国益優先により経済的な不満を回収するという作戦を取り、短期的には奏功している。

 また、新聞やテレビなどの伝統的なメディアによる事実と作法を守った報道が衰退する中、ソーシャルメディアによる情報伝達が感情動員の手段として多用されることも、自由主義を支える熟議や討論を脅かしている。16世紀、グーテンベルクが印刷術を発明し、ドイツ語訳の聖書が出版されたことは、マルティン・ルターの唱える万人司祭主義を押し広げた。21世紀では、ネットメディアの普及が現代版の印刷革命となり、政治や社会の議論において万人が評論家や記者となれる。そのこと自体は否定すべきではないが、自由な議論の一部は事実や論理の尊重というルールの無視へと逸脱しつつある。このような反則だらけの言論で民衆感情が刺激されれば、一見民主的な議論は自由からの逃走を招く。私のようにリベラルを自称する学者は、自分ではプロテスタントのつもりでも、世間から見ればルターの時代にラテン語で難解な教義を説いたカトリック僧のように見えるのだろう。
 
 要するに、自由民主主義の土台は今や浸食されており、問題への対応を誤ると、理性と啓蒙に基づく人権、自由、寛容という原理が毀損されるかもしれないのである。
 
 そうした危機を回避するためには、選挙で市民が適切な指導者を選ぶことが最も有効な対策となる。今年は11月に米国大統領選挙が行われ、日本でも東京オリンピックの後までには衆議院の解散総選挙が行われるだろうと言われている。しかし、自由民主主義の回復には楽観的になれない。米民主党の候補者選びは2月から本格化するが、主要な候補者は高齢者が多く、路線対立も深刻である。州ごとの選挙人獲得という制度の下では、トランプ再選を阻むのは難しい。

 日本の場合、腐敗、傲慢を極めている安倍政権は確かに窮地にあるが、今年解散総選挙を行えば、野党が勝利を収めることは実際には難しい。通常国会の会期末に解散し、7月の東京都知事選挙と同時に総選挙を行えば、オリンピックを控えてこのまま安倍首相と小池百合子東京都知事に迎え入れる役を任そうという民意が現れるだろう。11月の米大統領選でトランプが再選された後に総選挙を行えば、トランプのカウンターパートが務まるのは安倍首相しかいないという民意が働き、自民党は大敗を喫するということにはならないだろう。

 自由民主主義擁護の旗頭となるべき野党の体たらくも深刻である。昨年末に枝野幸男立憲民主党代表が国民民主党と社会民主党に合流を呼び掛け、協議が続いたが、玉木雄一郎国民民主党代表が難色を示し、通常国会召集までの合流は実現しない。何が合流の障害なのか、報道を見てもさっぱりわからない。野党として権力のチェックを行うだけなら、今までのように国会内の共闘で足りるのかもしれない。しかし、政権交代を起こし、政策転換を図るためには政権の担い手となる大きな野党を作らなければ、国民の期待や信頼は得られない。野党の指導者たちは、安倍政権による国政の壟断を見ても、口惜しいとか情けないとか思わないのだろうか。

 満身創痍の安倍政権が具体的な政策課題に前向きに取り組む力を持っているとは思えない。野党がすぐに政権を獲得できるとは思えないが、選挙が近づく中で権力をめぐる緊張感を回復しなければ、民主政治の劣化は止まらない。大きな目標のために小さな相違を乗り越えるという判断力が野党には必要である。

週刊東洋経済2020年2月1日

2020.03.11 Wednesday 21:23

21世紀日本における大衆の反逆


 安倍晋三首相は11月に近代日本史上、最長在任記録を更新した。しかし、桜を見る会をめぐる様々な疑惑が噴出する中で、大きな危機に直面している。安倍後援会が開催した前夜祭なるイベントをめぐる政治資金規正法や公職選挙法をめぐる論点については、法律の専門家の議論があるので、ここでは取り上げない。内閣主催の行事に多数の支持者や応援団の文化人、芸能人などを招待して、事実上の供応を行ったことの政治的責任を論じたい。

 政治家が個人で花見の会を主宰し、支持者に無料で酒食の提供を行えば公選法違反である。しかし、内閣主催で税金を使って供応すれば、違法性は問われないというのが安倍内閣の認識であろう。この政権に常識や行儀作法という言葉は通用しない。集団的自衛権の行使容認の時以来、法で明確に禁止されていなければ何をしてもよいというのが今までのやり方である。さらに言えば、参議院規則に基づいて3分の1以上の委員が予算委員会の開会を請求してもそれを無視していることに現れているように、罰則や強制執行の規定がない場合には明文の規則も無視するというのが今の与党である。

 安倍政治の本質は、成文法、慣習法を含む法に対する徹底的な蔑視にある。ここで思い出すのは、本欄でも紹介したことのある、オルテガ・イ・ガセットの『大衆の反逆』という書物である。オルテガは20世紀を大衆が支配する時代と規定し、大衆とは自己の欲望を制御できない甘やかされた子供だと定義した。彼は、ファシズムや過激な労働組合主義など、大衆のエネルギーを燃料とする政治変革が大衆による支配をもたらすと警鐘を鳴らしていた。今の政治状況に当てはめれば、オルテガのそのような見立ては外れている。現代は大衆が直接行動で権力を簒奪する時代ではない。米国のトランプ、英国のジョンソン、そして我が国の安倍、すべて甘やかされた子供が選挙で勝利し、権力の座に上り詰めているのである。

 政党政治で権力闘争が行われている次元では、党派性がぶつかり合う。1つしかない権力の椅子をめぐって複数の党派が闘う。しかし、選挙が決着し、権力の帰属が確定すれば、権力の担い手たる指導者は党派性を卒業し、反対者を含めて国民全体を統合する責任を負う。オルテガの言葉を使えば、「敵と共存する。反対者とともに政治を行う」ことが自由主義的民主主義の神髄である。しかし、権力を握った甘えん坊たちは、権力を仲間に特殊な恩恵を与えるための道具としか思わない。森友・加計疑惑から花見疑惑まで、規模の大小はあれ、そのような権力観の帰結である。

 オルテガは、「大衆は大衆でない者との共存を望まない。大衆でない者に対して、死んでも死にきれないほどの憎しみを抱いている」と書いている。これも、疑惑に対する安倍首相の対処ににじみ出ている。桜を見る会に関する「各界の功労者を招いた有意義な会合」という当初の政府説明は完全に崩壊している。しかし、首相も官房長官も当座を取り繕うために嘘をつき、辻褄が合わなくなるとさらに嘘を重ねるという繰り返しである。その根底にあるのは、疑惑を質す者に対する蔑視と憎悪である。自分の非について謝罪し、受け容れてもらいたいという誠実さはかけらもない。最長の政権は、モラルに関して最低の政権である。その憎悪は官僚にも伝染し、安倍政権を守るためならば、どんな見え透いた嘘でも平気でつくことが横行している。

 木に縁りて魚を求むの類の議論であることは重々承知だが、ともかく言い続けなければならない。刑事責任であれば、訴追する側が犯罪事実を証明する挙証責任を負う。しかし、政治の世界は違う。権力の正統性を維持し、為政者に対する国民の敬意を確保するためには、為政者が自らの行動の適切性について挙証責任を負う。桜を見る会に適格なゲストを招待したことは、名簿を公開すれば証明できる。前夜祭の経理について政治資金規正法違反や公職選挙法違反がないことは、パーティの明細書を公開すれば証明できる。挙証責任を果たさないということは、政治家の場合、自己の行為が不適正だと自白することを意味する。国会が花見疑惑にかかりきりになっているのはけしからんという安倍擁護派の意見もある。しかし、本来の政策議論ができないのは、権力者が挙証責任を果たしていないからである。
 政治の堕落を止めるためには、政治の世界における抑制が必要である。昔であれば、政権の不祥事は自民党内の反主流派を元気づけ、権力闘争を招いた。党内の振り子が触れることで、政治は刷新された。しかし、小選挙区制によって政党を集権化した今、抑制は政党間で働かせるしかない。その意味で、野党が倫理面での批判を加えるだけではなく、別の選択肢として国民に認知されるよう努力しなければならない。疑惑隠しのための年明け早々の解散、総選挙を予想する声もある。ならば、野党が十分な数の候補者と政権構想を準備しなければならない。

そして、最終的には国民自身が政治の堕落を恥じることが必要である。選挙において与党に痛撃を加えることが政治を立て直すための最も効果的な打開策となる。安倍首相は選挙に強いという定評があるが、それは有権者のおよそ半分が棄権することによってもたらされた結果である。全体の半分の有権者の争奪戦の中で、強い組織や支持基盤を持つ自民党、公明党が勝利している。言い古されたことだが、主権者の覚悟や誇りが問われているのである。日本人の多数がオルテガの言う大衆になったとは思わない。世論調査を見れば、疑惑に関する安倍首相の説明に納得できない人が多数であり、内閣支持率も下がり始めた。普通の市民は、政治に正義や品性を求めている。安倍政権が史上最長となったことを契機に、私たちがどのような政治を持ちたいのか、考えなければならない。

週刊東洋経済2019年12月14日

2019.04.11 Thursday 17:38

政治における論争と政策課題


 通常国会の予算審議では、経済分野の統計のずさんさが最大争点となった。ことはかなり専門的なテーマであり、世論の関心も高まらなかったので、政府は野党の追及をかわして逃げ切った感がある。しかし、経済の実態を測定する物差し自体にゆがみがあったという疑惑は続いている。『日本経済新聞』の昨年11月13日朝刊に、「国内総生産(GDP)など基幹統計の信頼性に日銀が不信を募らせ、独自に算出しようと元データの提供を迫っている」という記事があった。今回問題になった賃金統計のずさんさについてはすでに日銀が疑義を呈していたのである。政治的圧力が働いたかどうかは知る術もないが、安倍晋三政権の長期化の中で、政権が掲げる目標が達成されたという数字を拾い集めるという「問題意識」が所管官庁にあったことは事実であろう。

 アベノミクスが成果を上げているかどうかを国会で議論しても、水掛け論になる。むしろ野党は、短期的な政策の成否について議論するよりも、安倍政権が放置している長期的、構造的な問題について論争を提起し、自らの選択肢を示すべきである。

 人口減少が進むことは止めようのない現実である。その原因の1つは、1970年代後半に生まれた団塊ジュニア世代が第3次ベビーブームを起こさなかったことである。なぜこの世代がそれほど子供をつくらなかったかといえば、大学を出た時が金融危機や非正規雇用の急増の時期に重なり、低賃金で働く労働者が増えたことによる。この世代には引きこもりになった人も多い。人口減少が加速したのは人災である。

 その団塊ジュニア世代も40代後半である。20年後この世代が退職する時、十分な年金を受給できず、生活保護に頼る人の数が増えることが予想されている。財政、社会保障の破綻を防ぐために、この世代を社会に包摂し、稼ぎ、納税できるようにすることは時間との競争である。

 日本はいつまで巨額の国債を発行し続けられるのか、論争がある。経済学の常識に照らせば、国際収支の黒字が続く間は大丈夫ということになる。しかし、貿易収支は昨年後半から赤字基調で、今年1月だけでも1兆4千億円の赤字だった。投資収益があるから貿易赤字はカバーできるという議論もあるのだろうが、アメリカでバブルがはじけたらそれも終わりである。

 経済同友会代表幹事の小林正喜氏は、1月30日の『朝日新聞』のインタビューで、アベノミクスについて「この6年間の時間稼ぎのうちに、なにか独創的な技術や産業を生み出すことが目的だったのに顕著な結果が出ていない。ここに本質的な問題があります」と指摘している。まさに頂門の一針である。今、日本の貿易黒字は自動車が稼ぎ出しているが、これから電気自動車や自動運転の開発をめぐる大きな競争に立ち遅れれば、いよいよ稼ぐ産業はなくなる。そうなると、日本は国債消化を外資に頼る途上国型の財政に転落する。

 安倍政権の原発推進政策も、長期的な思慮を欠いた、電力会社を今だけ助けるものである。福島第一原発事故の処理費用について、政府は約22兆円と見積もっているが、民間シンクタンクは最大80兆円余りという試算を発表した。被害者の救済や放射能汚染の除去にまじめに取り組めば、1年分の国家予算に匹敵する費用がかかるのだろう。また、世界では化石燃料と原発という20世紀モデルから再生可能エネルギーに向けた大きな革命が起こっている。安倍政権の発想は、1960年に石炭を守れと主張して勝ち目のない戦いを挑んだ三井三池炭鉱労組と同じようなものである。

 要するに、アベノミクスで景気が良くなったか否かという議論は、日本が直面する巨大な課題とは無関係な、些末な議論である。この通常国会は参議院選挙前ということもあり、与野党対決の重要法案は提出されていない。予算は3月中に自然成立するのであり、国会議員には時間がたっぷりあるだろう。

 3月12日の『朝日新聞』朝刊に、こんな記事があった。
「野党4党が国会に提出した「原発ゼロ基本法案」が一度も審議されないまま、丸1年を迎えた。4月の統一地方選、今夏の参院選を前に、「脱原発」の争点化を避けたい与党が審議入りを拒み続けている。」

 原発をベースロード電源にするという政策について政府与党が確信を持っているのなら、原発ゼロを主張する野党と国会の場で議論すればよいではないか。議員立法については提案者が答弁席に立つ。日頃野党に攻められるばかりで鬱憤がたまっている与党議員にとっては、野党を責め立てる良い機会である。そうした機会を放棄して、数の力を頼んで議論自体を封じ込めるのは、議会政治の否定である。

 昨年秋に総裁選挙をしたばかりだというのに、自民党内では安倍総裁の4選もありうるという議論が飛び出した。権謀術数の中の観測気球だろうが、与党の政治家というのはこの種の権力闘争をするしか能がないのかと呆れる。

 政策論争の欠如に関しては、野党も自らの役割を見失っている感がある。参院選における1人区の候補者一本化についてはようやく合意ができた。しかし、野党が協力することで安倍政治をどのような意味で否定し、日本の経済と社会をどのように造り変えるか、具体的な議論はまだ見えてこない。国民民主党と自由党の合同の話も、国会審議で与党と妥協しがちな国民民主党に自由党の戦闘意欲を吹き込むのであれば意味があると思う。しかし、原発を始めとして国民民主党があいまいにしている政策についてもエッジを立てなければ、合同の意味はない。国会の内外で、野党こそ日本の現状に危機感を持ち、自らの構想を発信してほしい。

週刊東洋経済 3月30日号

2019.02.22 Friday 18:58

主観の過剰と安倍政治の危機


 通常国会の論戦が始まったが、冒頭から統計不正問題で政府は批判の矢面に立たされている。ことは近代国家にとって屋台骨に関わる危険信号である。この問題には、十数年の時間幅で日本をむしばんできた病理と、安倍晋三政権の経済政策が成功しているという演出に関わる部分の二面があると思える。

 毎月勤労統計調査のうち本来悉皆調査を行うべき大規模事業所についてサンプリングでお茶を濁すという悪習が、東京では2004年以降続いてきたことが明らかとなった。過去20年ほどの間の経費削減圧力の中、統計行政の現場は悉皆調査に代えてサンプル調査にして経費を浮かせるという悪知恵を働かせたのではないか。

 これは厚労省に特有の病理ではない。JR北海道では赤字経営の中、保線の経費を維持できず、現場の保線担当者は偽の検査数値を上げて、老朽化した線路を放置した。検査や統計という仕事は、それ自体派手な成果を上げる事業ではなく、現場担当者の良心に依存している。また、組織に資源が無くなれば、真っ先に削減の対象となる。しかし、データを捏造してごまかしを続ければ、JR北海道のように大きな脱線事故を起こす。国の経済にとってもこれは他人事ではない。また、東芝の不正経理や自動車メーカーの検査データ改ざんなど同種の事件は民間大企業でも起こっている。偽装という病が経済統計の世界にも及んでいたのかという驚きはある。それは、正確性や信頼性を二の次にする世の中の風潮の反映でもある。

 もう1つの問題は、安倍政権の成果を粉飾するために統計が操作されたのではないかという疑惑である。これについては、衆議院予算委員会で小川淳也議員が的確な追及を行った。統計の動揺に関しては、次のような経過があった。
2015年9月  安倍首相がGDP600兆円を目指すと宣言。
2015年10月 麻生太郎財務相が統計の精度を上げるようにと発言。
2016年6月 政府の「骨太方針」に統計改革が掲げられる。
2018年1月以降 厚生労働省は毎月勤労統計調査の原データに復元を加え、同年6月の対前年比賃金上昇率が3.3%と公表される。しかし、その後データ操作が明るみに出て、2.8%に訂正される。

 首相や財務省から直接的な指示があったかどうかはわからない。それにしても、経済データがアベノミクスの成功を示すように操作されていることをうかがわせる材料はたくさんある。粉飾決算を行った民間企業では、経営陣の責任が問われることのないように、現場の担当者が上の意向を慮って、利益を計上して各年度の決算をごまかすことを繰り返した。同じことが政府で行われたのではないか。

 統計不正問題は、安倍政治における虚偽、腐食体質の新たな現れである。森友・加計疑惑、働き方改革法案の基礎となったデータにおける虚偽、入国管理法改正の際の外国人技能実習生の実態の隠蔽、そして今回の統計不正である。今までの疑惑の際には、官僚が安倍政権に責めが及ぶことを防ぐために、証拠の隠蔽、文書の改ざん、国会答弁における虚偽など犯罪行為を繰り返してきた。安倍政権が長期化し、内閣人事局によって幹部人事を政権中枢が動かす状態が続いたために、中央省庁の官僚も事実の尊重、法の遵守という公務員の基本的な道徳をおろそかにし、権力に迎合する者が増えているとしか思えない。この点は、国会審議、関係者の招致によって徹底的に追及してほしい。

 安倍政治の大きな特徴は、主観が客観を制圧することである。日本銀行のデフレ脱却策は、失敗が明らかになったのちもひたすら不可能な目標を掲げ続けるという点で、太平洋戦争末期の本土決戦の発想と同じである。アベノミクスの成功という権力者の主観的願望が統計不正を招いた疑惑が濃いことはすでに述べたとおりである。主観過剰を歴史に投影すれば、過去の自国の行動を正当化、美化する歴史修正主義がはびこることとなる。安倍首相は正月休みに百田尚樹氏の『日本国紀』を読むとツイッターで書いていた。首相が歴史に学ぶということをどう理解しているかと思うと、情けなくなる。

 外交の世界でも、主観が客観を駆逐した独り相撲が続いている。日ロ間の領土紛争に決着をつけると張り切るものの、1月の日ロ首脳会談では平和条約締結に向けた具体的な前進はなかった。外交軍事大国のロシア相手に、安倍首相の主観が通じないのは当たり前であるが、日本の政治家のみならず、大方のメディアまでが幻想共同体に浸っていたことが明らかとなった。対米通商交渉では、TAG(物品貿易協定)なる新語をひねり出して国内世論を安心させようとしたが、ウィリアム・ハガティ駐日大使は、2月5日の朝日新聞のインタビューで、TAGという言葉を一蹴し、サービスの自由化も求めると明言した。トランプ政権は日本を大事にしてくれるというのも幻想である。

 歴史を振り返れば、日米開戦の失敗を見ればわかるように、主観の過剰は国を亡ぼす。政治家にとって、価値観、理想という主観は不可欠である。理想はこの世に実在しないから理想なのである。政治家の仕事は、虚栄や先入観を排して事実を客観的にとらえ、現実を一歩ずつ理想に近づけるために解決策を講じることである。「こうであって欲しい」と「こうである」の区別がつかなければ、政治は失敗する。だからこそ、戦後の民主化の中で統計が政府活動の重要分野として位置づけられたのである。

 メディアも、我々政治を論じる学者も、王様は裸だと叫ばなければならない最終局面に来ている。

週刊東洋経済 2月23日号

2018.10.23 Tuesday 18:27

安倍政治の転換の時

 前回の本欄で、自民党総裁選の地方党員票で石破茂氏が安倍晋三総裁に肉薄し、沖縄県知事選挙で野党系候補が勝てば、安倍政治の「終わりの始まり」のスイッチが入ると書いた。実際、この2つのことが起こり、政治の先行きはにわかに混沌としてきた。
 安倍首相のつまずきは、敵対する者を完膚なきまでに叩き潰すためにあらゆる権力を使うという強硬姿勢に起因している。選挙は権力闘争なので、力ずくで勝ちたいという欲望が出てくるのは仕方ない。それにしても、敵と味方の間に存在する中間的な有権者も投票に参加する以上、これらの人々の間に「やりすぎ」とか「品がない」という反発を生むような手法を取れば、強硬策は有害にもなる。
自民党総裁選では、公明正大な政策論争を回避して、陰湿に石破支持者を追い詰めるやり方が地方の党員の45%の反発を招いた。沖縄では、翁長雄志知事時代に辺野古基地建設をめぐって徹底的に問答無用の姿勢を貫いたうえに、今回の選挙では菅義偉官房長官や二階俊博幹事長、小泉進次郎氏を投入し、企業団体をきびしく締め付ける運動を展開した。与党系候補は携帯電話代の4割値引きという地方選挙には場違いな公約を繰り出した。沖縄県民はこうした上から目線の政治手法に厳しく反発したということができる。安倍首相は自民党の国会議員をほとんどイエスマンにすることはできたのかもしれないが、国民や一般党員をすべてイエスマンにすることはできない。それが民主主義である。
この2つのつまずきに対する安倍首相の解答が、10月2日の党人事と内閣改造であった。しかし、人選を見る限り強権的手法を反省しているとは思えない。それどころか、国民に対する挑戦と同類の政治家で政府与党を固めるという点で、権力偏重の上塗りをしている感がある。
まず、森友・加計問題に代表される政治腐敗や行政のゆがみに対する反省が全く実行されていない人事といわざるを得ない。麻生太郎財務相は留任した。さらに、不正献金疑惑の甘利明氏が党の選挙対策委員長に起用された。1997年、当時も一強多弱と言われた橋本龍太郎首相は内閣改造で、ロッキード事件灰色高官の佐藤孝行氏を入閣させ、世論の大きな批判を浴びた。これが橋本政権の終わりの始まりとなった。森友・加計問題に対する国民の疑念はまだ続いている。国民の倫理観を甘く見たら、安倍政権も厳しい批判を浴びることになる。
新内閣の最も深刻な問題点は、近代国家における自由、個人の尊厳、民主主義などの基本原理や歴史認識についてのグローバル・スタンダードを共有しない偏狭な政治家が多数登用されていることである。唯一の女性閣僚で新内閣の目玉であるはずの片山さつき氏は、天賦人権論を否定し、生活保護受給者攻撃の先頭に立ったことがある。平井卓也氏はSNSで福島瑞穂氏を「黙れ、ばばあ」と罵倒したことがある。原田義昭、桜田義孝の両氏は、南京虐殺や従軍慰安婦の存在を否定する言動をし、河野談話や村山談話に反対していた。柴山昌彦文科相はさっそく教育勅語を現代風にアレンジしたいと発言した。初入閣を果たした閣僚には、自己中心的ナショナリズムと復古主義を安倍首相と共有する政治家が多く選ばれている。今後憲法改正論議が始まるのかもしれないが、閣僚の歴史修正主義は国内外の批判を招き、安倍首相の対中国、北朝鮮外交の足を引っ張る危険性がある。
個人の尊厳を否定する政治家が与党にいることは、杉田水脈議員のLGBT差別発言で明らかとなった。この種の非常識な政治家や言論人がほかならぬ安倍首相を取り巻き、しばしばメディアで意気投合していることは、国辱である。安倍首相がそれを恥じていないことは、今回の組閣と党人事で明らかになった。
安倍首相はこれからの3年間の政権運営について、中間的な有権者から幅広い支持を集めるよりも、アベ大好きの保守的支持層の忠誠心に応えるという路線を取ったように思える。党の要職に稲田朋美、下村博文両氏を据え、憲法改正発議に向けて議論を始めるという構えである。しかし、公明党は改憲発議に消極的である。実現可能性が低いにもかかわらず、中核的支持層を喜ばせるためには改憲を最優先課題にせざるを得ない。同類の政治家で政府与党を固めた安倍政権は、世論から乖離し、自暴自棄で改憲の旗を振り続けるかもしれない。そこに閣僚のスキャンダルが重なれば、2007年の第1次安倍政権の轍を踏む可能性もある。
ただし、安倍政権が危機に陥るかどうかは、野党側の構えにかかっている。第1次安倍政権の時には、小沢一郎氏のリーダーシップの下、民主党が存在感を持っていた。そして、2007年の参院選に向けて着々と準備を進めていた。しかし、現在は野党分裂の状況の下、政権交代への備えは全くない。最近になってようやく各野党のリーダーが一人区での協力の必要性を説くようになった。
度々書いたことだが、野党第一党の立憲民主党は政党同士の舞台裏での提携、談合を否定し、野党第一党としての地歩を固めることを最優先しているように見える。しかし、そんな時間的余裕はない。安倍政権は改憲を実現するために、あるいは政権の存続のために来年の参院選に衆議院の解散をぶつけてくるかもしれない。そうした最悪のシナリオまで考えて、野党協力の態勢を準備すべきである。
最後に、最近の政治報道に関してNHKの異常さを指摘して起きた。沖縄県知事選挙の日は台風襲来が重なって、知事選報道が短くなったのは仕方ない。それにしても、BSニュースでは知事選には全く触れず、日馬富士の引退を伝えた。1日夜からは、入閣内定者を速報で紹介し、改造は特別編成で延々と報じていた。独裁国家の国営放送のような異常さである。報道機関の独立も問われている。

週刊東洋経済10月13日号

2018.10.23 Tuesday 18:18

安倍一強の構造


 日本の議会政治の劣化を見せつけた通常国会が終わり、政治関係者の関心は9月の自民党総裁選挙に向かっている。後述するように、政治批判が広い共感を得ることが困難な時代ではあるが、そうは言っても安倍晋三政権の犯罪的所業と自民党の荒廃について、私はしつこく批判し続けたい。財務省の人事異動では、文書改竄に関わって処分された人々が何事もなかったかのごとくに事務次官や主計局長に昇進した。国民をなめた人事である。財務官僚は信頼回復や文書管理の改革を訴えたが、空しいばかりである。行政に対する信頼回復のためには、森友疑惑の真相究明が不可欠であり、そこを無視した改革案など自己満足にすぎない。
 自民党の杉田水脈衆院議員が雑誌で、LGBTの人々は子供を産まないという意味で生産性が低く、それゆえ政策的な支援は不必要と述べて批判を集めている。私は、杉田議員がこの種の差別発言をしても驚かない。問題は、彼女のこのような差別主義的思想を承知の上で比例単独候補に引き立て、国会議員にしたうえで、暴言があっても咎めない自民党にある。人間の生き方はいろいろあるべきだ。しかし、いろいろな生き方を否定し、特定の生き方を他人に押し付けるような人物には、民主政治における居場所を与えてはならない。今の自民党に蔓延しているのは、人間の尊厳を否定する差別主義も1つの考え方として許容する底知れぬシニシズムである。
 ここまで安倍政権批判を書きながら、自分自身壁にぶつかることを感じる。この種の議論をいくら繰り返しても、安倍政権はびくともしない。楽々と総裁選で勝利し、長期政権を続けるのだろう。各種の世論調査を見ても、個別の政策について問われれば反対や疑問を唱える市民は多いが、日本人の多数派は無関心も含めて安倍政権を受容している。あるいは、政権を批判する野党や私のような言論に共感しない。
私自身が悩んできたこの問題について、最近、目から鱗が落ちる様な論文を読んだ。政治思想史研究者、野口雅弘氏の「「コミュ力重視」の若者世代はこうして「野党ぎらい」になっていく」(『現代ビジネス』7月13日)である。最近の大学教育ではコミュニケーション能力が重視される。それは、他者との話し合いを軋轢なく円滑に進める能力であり、発言の内容よりも他者に同調しながら、対立を回避することを重視する。それを前提に、野口氏は次のように指摘する。
「もしコミュニケーションの理想がこうしたものになりつつあるとすれば、ここに「野党」的なものの存在の余地はほとんどまったくない。野党がその性質上行わざるをえない、いま流れているスムーズな「空気」を相対化したり、それに疑問を呈したり、あるいはそれをひっくり返したりする振舞いは、「コミュ力」のユートピアでは「コミュ障」とされてしまいかねない。このタイプの政党のプレイヤーは、ある特定課題に「こだわり」を持つ人たちや、ある法案に必死に抵抗しようとする勢力を排除する。」
「「コミュ力」が賞賛される世界では、野党が野党であることで評価してもらえる可能性はない。違いや軋轢を避けたり、笑いにしたりするのではなく、その対抗性をそれなりに真面目に引き受けること。相手の批判に腹を立てても、それなりにそれと向き合うこと。こうした可能性の乏しいコミュニケーションは同調過剰になり、表層的になり、深まらず、退屈で、そして疲れる。いまの政局の行詰まり感は、「コミュ力」のユートピアが政党政治の世界に投影された結果の成れの果てではないか。」
 野口氏の言う若者の対立忌避の政治態度は、他の世代にも存在するのだろう。空気を読むことは大人の社会の基本マナーである。大学でコミュニケーション能力が重視されるようになったのは、大学が思考を訓練する場ではなく、就職予備校になったゆえである。4年のうちの半分を就職関連の活動に費やすわけで、若者は早くから大人の常識に同調することを覚える。その意味で、表面的な同調に自己を縛り付ける態度は社会の反映である。
 安倍首相は、意図的かどうかはわからないが、野党や批判的言論人を「特定の課題にこだわる」浮いた存在に追いやることに成功している。首相は憲法改正にこだわっているのだが、権力者のこだわりは同調主義社会では問題視されない。首相が論理を無視して集団的自衛権行使容認や改憲を追求すれば、反対する側は先祖返りしたような護憲の運動方法を使わざるを得ない。それで一定数の支持は得られるが、広がりはない。野党の政治家にはもう一度政権交代を起こして世の中を変えたいという意欲を持っている者もいるのだが、反対が前面に出ると、白眼視される。
 野党がこの隘路を抜け出すには、来年の参院選で改憲勢力の3分の2を阻止して改憲論議に決着をつけたうえで、政権交代に向けたビジョンを示すしかない。現状で政権構想を語るなら、立憲民主党と国民民主党を中心とした連立政権を作るしかないのだが、それはあまりに遠いゴールである。参院選における協力についてさえ、議論は始まっていない。もとは民主党、民進党で仲間だった政治家も、別の党に分かれれば、それぞれの党の論理で行動する。立憲民主党からは、大都市複数区と比例で議席を増やせればよいという本音も聞こえてくる。
 参院選を有意義なものにするためには、野党が協力してすべての1人区で与野党対決の構図を作り、安倍政治に批判的な市民に対して選択肢を提示しなければならない。野党が安倍政権という大きな敵を見失って、矮小な勢力争いに没頭するなど、言語道断の所業である。とりわけ野党第一党の立憲民主党の責任は大きい。野党協力の先頭に立つべきである。

週刊東洋経済8月11日号

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