2018.02.07 Wednesday 17:24

都会生活の脆さ


 1月22日には東京で久しぶりの大雪が降った。北海道に長い間住んでいた私は、この程度を大雪とは言わない。しかし、毎度のことながら、交通機関は大混乱した。積雪の中で人間生活を守るためには大きな費用が掛かる。東京では雪対策などしていないのだから、たまに大雪が降れば不便を我慢するしかない。交通機関の遅れに文句を言う方が間違っている。人口2百万人弱の札幌市が1年に使う除雪費用は約200億円である。春になれば解けるに決まっている雪のためにこれだけのお金を使うのはむなしいような気もする。しかし、それは北国の自然環境の中で生きさせてもらうためのコストと割り切るしかない。その種のコストについて気付く機会のない都会人は自然に対して傲慢になりやすく、それは不幸あるいは危険のもととなる。
 人間の生命、生活が自然や気候の微妙なバランスの上に成り立っていることは、農業者には自明の常識だろう。都会人はそのことを理解せず、不平屋になりやすい。昨年10月ごろの長雨や低温のせいで、正月から野菜の高値が続いている。もちろん消費者にとっては困った話である。しかし、見方によっては、気候がちょっとバランスを崩しただけで私たちの生活はとたんに大きな苦労を強いられるという厳しい現実に思いを致すよい機会である。店に行けば野菜や果物が適切な値段でいくらでも買えるということは、ありがたいことである。
 世界のいくつかの国からは、地球温暖化に起因すると思われる大火災のニュースが入ってくる。漁業の世界では、サンマや鮭などのお馴染みの魚の漁獲量が激減しているというニュースもあった。さらに、今年はシラスウナギの漁獲高が従来の1%以下という衝撃的な数字まで報じられている。これについて、斎藤健農水大臣は今年の土用の丑の日に出荷されるのは昨年捕獲されたものなのでとりあえず影響はないとコメントしていた。それは全くの気休めではないか。ウナギが絶滅危惧種になっていることについての危機感を喚起すべきである。
 古来、食料価格の値上がりは庶民を苦しめ、時として革命の引き金となった。だが、21世紀の今は、価格の高騰には、気候のバランスが崩れるうえに、温室効果ガスの歯止めなき排出、資源の乱獲、自然破壊など人為的な要因が重なっている。人間にとって自業自得という側面もある。
 持続可能性という観点から人間の生活や経済活動を見直す必要性は、一層大きくなっている。食料生産を金儲けの手段としてだけとらえ、儲けのための効率性を追求することは、途方もない愚行である。

日本農業新聞 1月31日

2015.11.27 Friday 23:11

市民が作る選挙

 


 安保法制反対運動は新しい政治文化を作り出した。そのことは、日本の政治にとっての大きな希望である。1120日、私が共同代表を務める立憲デモクラシーの会は、札幌でもシンポジウムを開いた。私ともう一人のメンバーが講演し、札幌で運動をした女性、学生にパネルディスカッションに加わってもらった。我田引水で恐縮だが、その学生は私が北大で行った最後の政治学の授業を1年生の時に聴いて、そこで説明された概念を使って安保法制の政治過程を深く見通すことができたと発言した。教師としては、これ以上の幸せはない。

 安保法反対運動は、伝統的な平和団体だけが支えたのではない。今までこの種の運動に参加したことのない人々が動き出した。「アベ政治を許さない」という金子兜太先生の書になるプレートをかばんにつけるのも、有意義な意思表示である。おかしいことに対しておかしいと声を上げ、社会に対して働き掛ける人は、安保法反対運動を契機に増えた。

 もちろん、法律を作る、廃止するという作業は国会にしかできない。市民運動が政策を実現したいと思うとき、政治にかかわるのは当然である。安保法制反対運動に参加した人々から野党はまとまれという要求が出て、共産党の志位和夫委員長は野党結集を提案した。しかし、それから2か月以上がたつというのに、野党がまとまって選挙を戦う体制はできていない。特に、野党第一党の民主党の消極性が目に余る。

 もはや政党同士の話し合いを見守るなどという悠長なことを言っている段階ではなくなった。政党のメンツや主導権が邪魔して協力ができないのなら、市民が政党政治の外側に集まって議論のテーブルを設定し、立憲政治と平和を回復するための理念を練り、各党に協力を呼び掛けるという手順を取ることが必要である。資金や組織のない市民が選挙を仕切れるほど政治は甘くない。しかし、候補者の擁立と基本的な政策・理念の立案の作業から市民が議論を主導し、自分の問題として選挙に参加するような仕掛けを作ることは可能である。

 次の国政選挙は来年夏の参議院選挙であるが、北海道では来年4月に衆議院第5区の補欠選挙が行われる。したがって、来年の政治の流れを北海道が決めると言っても過言ではない。また、参議院選挙の北海道選挙区では定数が3に増える。自民と民主が1つずつ分け合う無風選挙ではなく、実質的な選挙戦が期待される。これらの選挙で、市民主導の選挙戦が実現すれば、選挙戦は一層盛り上がるだろう。

 デモや運動における政治文化の創造が、選挙における政治文化の刷新につながるだろうか。現実には多くのハードルがあるが、今は想像力をめぐらせることが必要である。


朝日新聞北海道版11月26日


2015.10.29 Thursday 16:44

自由への闘争

 今の時代、安倍晋三首相自ら日本は自由と民主主義と法の支配という価値を欧米と共有すると叫ぶから、昔の特高や憲兵のような権力が市民の自由を直接弾圧するという事態は考えにくい。しかし、最近のニュースを見ると、自由にものが言えない息苦しい時代が徐々に近づいていることを感じさせられる。

 放送大学の試験問題で現政権を批判する文章があったことに学生から抗議が来て、大学は政治的中立を理由に当該問題文を大学のホームページから削除した。私も15年ほど前に放送大学で現代日本の政治に関する何種類かの講義を持ち、自民党政治の問題点を丁寧に指摘した。これは学問の自由の範囲内で、全く問題にされなかった。

 立教大学で開催予定だった安保法制に反対する学者の会のシンポジウムが、突然の会場使用不許可であちこち場所を探し回った挙句、法政大学で開催された。東京の書店での民主主義をテーマにしたキャンペーンに対してネット右翼が抗議し、民主主義を理解するための本が撤去された。そして、北星学園大学では、慰安婦問題に関する記事を書いて右翼から攻撃を受けてきた植村隆氏について、来年度の非常勤講師の継続が危ぶまれている。

 もちろん、権力が自由への脅威である場合もある。「アベ政治を許さない」というロゴの入った文具が学校にあったといって教育委員会が調査に入るという北海道の騒ぎなど、憲兵的発想が学校に侵入していることを物語る。ただし、自由への脅威は権力であるとは限らない。むしろ、社会の次元で、私人による自由破壊の行動が不当に大きな影響力を持つことが最近の嫌な感じの原因である。

 戦前の日本では、在郷軍人会や院外団が騒ぎを起こして自由主義の知識人を攻撃し、権力がその後を追ったという事例がある。天皇機関説事件から国体明徴に至る動きがそうであった。現代日本では、匿名のネット右翼が在郷軍人会の代わりに、自由な空間を破壊すべく跳梁跋扈している。

 今や、私たちが体を張ってでも、多少面倒なことに巻き込まれて消耗しても、自由を守る決意があるかどうかが問われている。今や、自由の敵は面倒を恐れ、事なかれ主義を決め込んで、自由を貫こうとする人間への支援をやめ、自由を自ら放棄する管理的立場の人々である。

 私のように鈍感な人間は、政治的発言に対してネット上で誹謗中傷の嵐が吹いても、何を言ってもいちゃもんをつけるやつはいるだろうと腹をくくって無視している。今の日本では、自国をすべて正当化し、価値観の多様性を否定しようとする勢力と、憲法に謳われている自由と民主主義を守ろうとする人々に引き裂かれつつある。本当に自由を守るためには、あえて空気を無視することも必要となるのだ。自由を引き継ぐことができなかったら、私たちは後世の日本人に顔向けできない。


朝日新聞北海道版10月29日


2014.10.31 Friday 10:46

ローカルな大学の役割

 

 グローバル化、入試改革など、次から次へと文部科学省から無理難題を吹っ掛けられ、大学人は疲弊する一方である。入試についてひとこと言わせてもらえば、求める人物像を明記したうえで人物重視の入試をせよなどというのは、現実を知らない官僚の作文である。プロ野球のスカウトは高校生を取る時、足の速さと肩の強さを見ると言われるが、大学の教師も同じである。知的な基礎体力があって、練習をいとわない向上心があれば、大学に入っていくらでも鍛えられる。18歳の若者が、自分は将来こんな大人になってこういう仕事をしたいなどと理路整然とプレゼンテーションするならば、そちらの方が気味悪い。


 今日の本題は、ローカルな大学の役割である。「実践的な職業教育を行う新たな高等教育機関の制度化に関する有識者会議」という長ったらしい会議の委員で、経営コンサルタントの冨山和彦という人物が、この会議の初回の会合で配布したペーパーがネット上で話題になった。それは実に正直に今後の大学の二極化を打ち出している。彼は、グローバル化にさおさして創造性を追求するのをG型大学、ローカルな次元で役立つ人材を輩出するのをL型大学と分類している。L型大学では、英文学の代わりに地元の観光案内をするための英会話を、憲法や刑法の代わりに道路交通法と大型特殊免許を身に着けるべきだとして、教師も学者ではなく専門学校のインストラクターになれと提言する。これは経済界のエリートおよびそれに迎合する政治家や官僚の本音であろう。


 知的活動はグローバルな競争をするエリートが独占すればよく、地方には知識はいらないという傲慢さには、唖然とするばかりである。また、地方は知識なしでやっていくべきだという決めつけも、実態からかけ離れている。地域の環境を守り、魅力ある風景を作り出すためにどんなルールをつくるか。地域の特産品から新しい製品を作り、それを全国あるいはグローバルな流通にいかに乗せていくか。現に地域の人々が取り組んでいる課題を実現するためには、美的センス、専門的知識、あるいは国際的な経験が必要とされている。そこでこそ、大学の持つ知識やネットワークが必要とされる。


 20年ほど前から私は北海道で地方自治土曜講座の講師を務め、自治体職員や地方議員に政治学の一端を講義した。そこで話したことは、すぐに役立つ実務の知識ではなかった。しかし、今という時代がどう流れており、中央政府にどんな問題や限界があるかを考えたことは、その後の仕事に役立っているはずである。その頃の受講者の中には、今自治体の首長になった人もいる。


 地域社会の考える力を強めることが、地方創生の王道である。北海道はその意味での先端を走ってきたはずである。


朝日新聞北海道版10月30日


2012.09.25 Tuesday 16:57

民主党代表選挙の感想

 民主、自民両党で党首選挙が並行して行われたが、政党政治への期待を取り戻すことはできないようである。今回の党首選挙には、今までにない大きな特徴があった。それは、国のあり方そのものを、そして日本の政党政治を根本から揺るがすような大きな危機の中でリーダー選びが行われたことである。

 前者は領土をめぐる争いであり、後者は二大政党に対する不信の蔓延(まんえん)とそれを養分とする日本維新の会の台頭である。しかし、民主党代表選挙に限ってみれば、危機感の欠如と党内の弛緩(しかん)した空気だけが見えてきた。今の政党政治にそのような危機に対処する知力も胆力もないことに、大方の国民は失望している。

 民主党では消費税増税に向けた調整でも、原発再稼働をめぐっても怒鳴りあいのような議論が行われた。それほど野田政権の政策に対する不満は党内に鬱積(うっせき)している。しかし、ほとんどの議員はそうした不満を党首選挙の中で具体化する意欲を持たなかった。

 細野豪志原発事故担当相を擁立する動きも、若くて見栄えの良い政治家を看板に据えるという程度の話で、本人が断ったのは賢明であった。野田佳彦首相に対抗する候補を一本化できなかった時点で、この代表選挙は終わっていた。1年ごとに首相を代えるのはみっともないという理屈もあるが、惨敗が予想される次の衆院選の敗戦投手を決める選挙だから、誰も必死にならなかったということであろう。

 確かに民主党に対する信頼が地に落ちている現状で、生き残りを策してあがくことには意味はない。それにしてもこの代表選は、3年間の政権での経験を総括し、原発や外交などの国難にどう対処するかを論じる最後の機会だったはずである。

 また、野党自民党では、2世議員たちが、そろいもそろって無邪気で無責任ともいえるナショナリズムの絶叫を競い、原発問題には知らぬふりをしている状況だ。与党らしく地に足の着いた政策論を展開する好機だったはずである。

 敗色濃厚の戦いで無駄な労力は使いたくないという気分もわかる。しかし、そうした無気力が政党政治全体に対する絶望を招いている。たとえ下野確実な状況であっても民主党★を誰が代表し、何をするために政権交代を起こしたのか、そのアイデンティティーを明確にしなければ、政党政治は無意味化する。右派ナショナリズムと大衆扇動の二者択一を望む国民がどこにいるというのか。

 大敗に向けての圧勝とは野田氏も皮肉な役回りを引き受けたものである。しかし、崩れゆく城の中で権力基盤を固めることにも意味はある。いささか尾籠(びろう)な表現を許してもらえば、目いっぱい臭い最後屁をひることに知恵を絞り、力を尽くすことこそ野田首相の最後にして最大の使命である。どうせ負けるという状況を最大限に活用し、けれんみのない政策を打ち出すことを期待したい。

 自民党とそれを支援する経済界には大いに嫌われればよい。権力を持っている間に、原発や近隣外交について、日本の将来を導く斬新な政策軸を打ち立てることができれば、民主党は★大敗しても、まだ日本の政党政治は生き延びることができるだろう。

共同通信配信 河北新報、熊本日日新聞など 9月24日

2012.07.10 Tuesday 17:11

民主党という実験の終結

  小沢一郎氏が離党したことは、二〇年がかりの政治改革、政党再編の試みが挫折したことを意味する。ちょうど二〇年前の夏、自民党の金丸信副総裁(当時)が政治資金問題で副総裁を辞任し、それに連動して竹下派の内紛が始まったところから、日本の政党政治を刷新する模索が始まった。

そして、その中心にはいつも小沢という政治家がいた。皮肉なことというべきか、小沢が負けることによって日本政治は次の段階に進むという繰り返しであった。竹下派の抗争、細川連立政権の崩壊、新進党の瓦解、小沢の仕掛けはことごとく失敗してきた。その挙句に、民主党に合流した。

二〇〇六年のいわゆる偽メール事件で民主党が危機に陥ったことで、小沢の出番が回ってきた。小沢が代表に就任した前後から、私は彼とたびたび議論し、政権交代への道筋について意気投合した。小沢代表が率いる民主党が自民党政権を倒すしかない、と確信した時期があった。小沢は小泉自民党が構造改革路線によって日本社会を分断したことに危機感を持ち、「生活第一」路線で民主党の政策軸を立て直した。民主党に生活保障を軸とする社会民主主義路線を提唱してきた私は、自民党田中派の嫡子である小沢に最大の理解者を見出した思いであった。

小沢がいなかったら、政権交代はあり得なかった。しかし、小沢がいたから民主党は分裂した。この矛盾が民主党の限界である。

小沢が掲げた生活第一も権力闘争の方便でしかなかったところに、民主党の最大の失敗があった。民主党分裂の引き金は消費増税とマニフェスト遵守の矛盾である。そもそも生活第一が理念の次元で共有されていれば、税制など所詮は手段であり、いくらでも妥協できる話である。野田佳彦首相は増税という手段を絶対視し、小沢はマニフェストの形式的遵守に自分の存在意義を求めた。理念不在はどちらも同罪である。

民主党は小選挙区が作った寄木細工であり、これに理念を求めるのは木によって魚を求めるたぐいの話であることは、百も承知である。それにしても、貪欲放埓の資本主義経済の末路を見て政治が何をなすべきかを考えれば、生活第一を理念として民主党が共有することはできると私は信じてきた。しかし、その夢も破れてしまった。

野田首相の下で民主党という器が存続しても、それはもはや自民党の複製でしかない。その意味でも、民主党という実験は終わる。我々は、様々な試行錯誤を経て、政党には望ましい社会に関する理念の共有が必要であるという当たり前の真理を、また小選挙区が自動的に二大政党制を作るわけではないという帰結を知らされたのである。

政権交代の夢を追った民主党の政治家がなすべきことは単純である。自分たちが何をしたかったのかを思い出し、これからどのような選択肢を提示できるかを考えることである。小沢を切ったことで妙な勝利感に浸っている指導部に対して論戦を挑んでほしい。

共同通信配信 琉球新報など7月3日

2011.04.04 Monday 00:01

震災対応と政治主導のあるべき姿

 

 

 政権交代以来政治主導を追求してきた民主党政権の下で大震災が勃発し、まさに政治家のリーダーシップの真価が問われる場面となった。大震災には、地震や津波による被災者の支援、復興という在来型の問題と、原子力発電所の大規模な破壊というまったく異なる二つの問題が含まれており、政府首脳の苦悩は計り知れない。外野からの注文は無責任かもしれないが、政治家の発揮すべき指導力について考えてみたい。

 被災者支援という課題は、規模が桁外れに大きいものの、性格は阪神大震災などの過去の事例と同じで、今までの経験が役立つ。支援のための特別対策本部を設置し、仙谷由人官房副長官が全体を統括するという体制でこれから動いていくことが期待される。ただし、民主党が今まで掲げてきた政治主導については、実務に即して修正することが必要である。

たとえば、事務次官会議の廃止は政治主導の象徴であった。しかし、政府の資源をフルに動員して救援に向ける時、各省組織を掌握している役人側のトップと密接に協力することは不可欠である。この場合、政治主導の最大のテーマは、現場が必要としている資金と権限を惜しみなく与えるという決断をすることである。それによって使命感を付与された行政官は、現場で奮闘すればよい。それこそがあるべき政官関係である。

原発事故は日本の政治にとって初めて直面する難問である。事故発生以来の記者会見等を見れば、東京電力は無責任だし、今まで原発を推進してきた経産省や原子力工学の学者も同じ穴の狢だということは、素人にも伝わってくる。この事故は、それらの専門家が業界の利益を追求した結果起こった惨事である。しかし、対処法を考えるために不可欠な情報や分析について、同じ専門家に頼らざるを得ない点に、問題の困難さがある。専門家を信用できない首相は、補佐官をあてがって専門家を追求したり、参与を発令し別の情報源を作ろうとしたりする。その気持ちは分かる。しかし、情報集約や指揮命令の系統が明確化できていなければ、そうした措置は現場で混乱を起こすだけである。

いま何が必要かという観点から仕組みを再検討すべきである。今何よりも必要なのは現状に関する正しい情報である。次に、追求すべき最善シナリオから、起こりうる最悪シナリオを書き、それぞれに応じた行動計画を立案、準備しておくことである。

真相の把握と責任追及が切断されていないなら、担当者は情報を隠蔽したり、希望的観測で当面世の中を欺こうとしたりする。それは組織の宿命である。政府首脳が記者会見で東電を批判すれば、本当の情報はますます内にこもる。まず、現場を担当している人々を萎縮させず、正直に情報を上げることを政府もメディアも評価するという環境を作らなければならない。

次に重要なことは、政治指導者と専門家の協力関係を再構築することである。専門家の傲慢や無責任に対する反発から政治が専門家を糾弾しても、問題は解決しない。今求められるのは、専門性の否定ではなく、カウンター専門家の登用である。業界利益を追求した学者は「想定外」と言い訳したが、今回のような事故の可能性を指摘していた専門家もいる。カウンター専門家とは後者のことである。虚心坦懐にあらゆるシナリオを書くには、とらわれのないカウンター専門家が必要である。官僚組織の中にも、従来の政策に疑念や反省を持っている専門家は存在する。対抗的知性を動員して、既存組織のよい面を助長して対策を立てることが急務だ。

マキャベリは『君主論』の中で、誰を助言者にするかで君主の力量が分かると述べている。現代の政治指導者も個別政策についてはアマチュアである。優れた指導者は危機に際して、どのような専門家の意見を聞くかを判断しなければならない。

共同通信配信
神戸新聞4月1日など


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