2004.09.24 Friday 22:37

04年9月:日本政治学会(2004年10月2日)報告

 日本政治学会2004年度研究会・2004年10月2日
   共通論題A 日本の左翼??過去・現在・未来

   「戦後政治における左翼の役割と限界」      山口二郎 北海道大学法学研究科

   引用不可
 

戦後政治における左翼の役割と限界

はじめに???本報告の問題意識
 本論に入る前に、本報告の問題意識について説明しておきたい。左翼という言葉は、多義的、論争的なものであり、まず本論における定義をしておく必要がある。ここでは、ノルベルト・ボッビオの定義にしたがって、政治権力を使って平等を実現することに積極的な政党・政治集団を左翼と呼び、これに反対するものを右翼と呼ぶことにする(Bobbio, 1996)。もちろん、左翼(右翼)の構成要素には、他にもいくつかの重要なものがある。しかし、現在の政党政治における対立構図を考える上では、あとで述べるように、このボッビオの定義が最も有意義であると考えられる。
 そして、左右の対立という観点から日本の政党政治を他の民主主義国と比較したとき、日本における社会民主主義政党(あるいはアメリカ民主党リベラル派に相当する勢力)の不在という大きな特徴に気づかされる。もちろん、戦後日本には社会党という革新政党があり、その存在によって政策に関する左右対立がある程度演じられた。しかし、1990年代における政党再編成の過程で社会党は解体し、一定の存在感を持つ左派政党は消滅した。現在の社会民主党は、護憲を掲げるシングル・イシュー政党であり、むしろ日本人に社会民主主義に対する誤解を生み出す元凶でしかない。また、西欧の政党政治における左右の対立との比較という観点から、政権の担い手としての現実的可能性を持たない共産党は、本報告における議論の対象からははずれることも、了解していただきたい。
 本報告の関心は、大きく2つある。第1は、なぜそれなりの資源を持ってきた革新政党が90年代の政党再編の過程で分裂・解体し、日本で政権を担いうる左派政党が形成されなかったのかというアカデミックな関心である。第2は、どうすれば政権を担いうる左派政党ができるかという実践的、規範的な関心である。
 第1の関心については、戦後政治における左派の特徴を歴史的に振り返り、それらの特徴が90年代における左派の解体につながっていった過程を明らかにする。内政、外交の両面で、戦後革新の発想や思考が左派のリニューアルを妨げたことが、第1の問いに対する答えとなる。
 第2の関心からは、日本の政党政治における左派の必要性を明らかにした上で、現在の最大野党である民主党が、日本における社会民主主義的政党の機能的代替物になれるかどうかを論じることとする。
 なお、テーマの性質上、分析の部分にも筆者の実践的、規範的な関心が反映されていることをあらかじめお断りしておきたい。また、それぞれの具体的な課題について政策を打ち出すことは、本報告の任務を超える作業であることをお断りしておきたい。
1 戦後政治史における左翼

(1)戦後左翼の特徴

・左派におけるマルクス主義者の優位

 戦後日本政治における左翼を振り返ったとき、いわゆる先進民主主義国の中では、左翼の中でもより左派的な集団、理論としてのマルクス主義、政治勢力としての共産党やマルクス・レーニン主義者がきわめて長い間大きな存在であったことを、最大の特徴として指摘することができる(1)。

 その原因としては、第1に共産主義者が戦争に対する抵抗を貫いたのに対して、社会大衆党など右派的社会主義勢力の多くは戦争を支持したという戦中の経験があげられる。戦争中に獄中で被転向を貫いたという経験は、共産主義者にとって1つの勲章となった(石川真澄、2004)。この点は、社会主義者が共産党に対して劣等感を抱く一因となった。

 第2は、日本における左派のインテリが持っていた理論信仰(丸山真男、1961)という原因である。マルクス主義の理論体系は、日本の政治体制を批判する左派知識人にとってきわめて魅力的であった。そして、左派陣営においては、理論的正しさと政治的権威とが結びついていた。左派における政治路線をめぐる論争は、有効性や現実的可能性よりも、理論的な正しさをめぐるものになった。
 左翼の中でもその中の左派が権威を持ち、左翼の多くが理論的な正しさを追求するという点は、後に現実政治における左翼の行動に大きな影響を及ぼすこととなる。

・戦後左翼の構成要素

 市民派政治学者として戦後政治学をリードした高畠通敏は、戦後革新の構成要素として次の4つをあげている(高畠、和田、山口、1994)。(高畠のいう革新は、実体としての担い手において、本稿の左翼・左派と重なり合う。)そもそも戦後革新は、戦後民主主義の原点である日本国憲法に戻れという復古的な理念を中核に持っていたと高畠は言う。そして、それを腑分けすれば、4つの柱があった。

 第1は、近代主義であった。これは、戦前の天皇制社会における共同体の束縛や権威主義に対する個人の解放を求める情念であった。そして、若者、女性、ムラ・イエから離脱した都市生活者がこの意味での革新の支持者となった。

 第2は、平和主義であった。戦争の悲惨を体験した人々が、平和勢力としての革新陣営を支持した。憲法9条は、この意味での革新のシンボルであった。戦争に巻き込まれるのはいやだという厭戦感が、革新にとってのエネルギー源であった。

 第3は、社会主義あるいは社会主義信仰であった。革新運動を積み重ねていけばやがては社会主義にたどり着くという信仰が革新陣営に存在した。高畠は明示的に指摘してはいないが、戦後革新と社会主義との間には論理的な連関は存在しない。この3番目の特徴は、革新を掲げた人々が社会主義政党の構成員であったという偶発的事情によるというべきであろう。そして、戦後民主主義の原点である憲法を守るという政治運動と社会主義が分かちがたく結びついたことは、後に左翼に大きな影を落とすことになる。

 第4は、戦後民主主義であった。戦後民主主義は第1、第2の要素と重なり合うように思えるが、高畠によれば、戦後民主主義とは、代表民主主義、多数決原理などの制度や手続に還元されない、敗戦後の解放を想起する精神的な経験を指していると思われる。
 戦後左翼の構成要素をこのように整理してみると、本報告の焦点となる分配あるいは経済的平等の問題がそれほど大きな比重を占めていなかったことが分かる。むしろ、戦後左翼にとっては、民主主義と平和という政治的価値が重要であった。また、政治運動のスタイルにおいては、左派の支持者の要求を政策的に実現するという建設的な方向よりも、オリジナルな戦後民主主義を守れという復古的な方向が強かったことも、ここで確認しておきたい(2)。

(2)戦後左翼にとっての「政治」

・左派の自己満足
 民主政治には、権力への参加と権力に対する抵抗という2つの側面がある。多くの国で左翼政党はこの両者のバランスに悩んできた。20世紀の中頃から、左翼政党は議会政治や市場経済など、政治経済の基本的制度を共有し、政権交代をともなう政党システムの中で、両者のバランスを取るようになった。

 これに対して、日本の左翼においては、権力に対する抵抗の側面が重視されてきた。即ち、多数派を結集して権力を取り、政策を実現するというよりも、権力と戦うことが政治の主たる内容とされた。
 日本の左翼がこのような政治観を持つに至った背景には、いくつかの理由があった。まず第1に、選挙における得票数、議会における議席数に関して、敗戦直後から左派と右派の間に1:2という絶対的な壁が存在した(石川、2004)。戦後の出発点において左派と右派の間にこれだけの格差が存在したことは、日本とドイツに共通した現実であった。ドイツの場合は左派が、バート・ゴーテスベルグ綱領の採択から始まって、勢力拡大の努力を重ね、政権交代をともなう政党システムを構築したのに対して、日本の場合は、この勢力比の中に左派は自足した。

 第2に、そのような自足をもたらした要因として、憲法政治という快適な空間が存在したことを指摘しなければならない。戦後左派にとっての最大の獲得目標が憲法改正阻止であったことは、ここで改めて指摘するまでもない。そして、その目標を達成するためには国会で3分の1の議席を確保すれば足りるのであり、左翼にとっては身の丈にあった獲得目標を、超越的な努力をしなくても達成し続けられるという、快適な状況が続いたということが、結果的には言えるのである。

 左派が政権交代への現実的な意欲をどの時期まで持続していたかについては、いくつかの議論がある(中北浩爾、2002)。明確なことは、60年代に入って、保守政権が改憲を断念し、経済成長を政策の中心に据えたのとは対照的に、いわゆる構造改革論の否定、「日本における社会主義への道」の採択など、左派が教条主義化の傾向を深めたことである。また、西欧社会民主主義の理念を共有する左派の中の右派が社会党から分裂したことも、左派の政権獲得への意欲を分散させることにつながった。さらに、社会民主主義の理念を掲げて発足した民社党が、結局民間大企業の保守的労働組合の利益代表にとどまり、勢力を拡大できなかったことも、左派が政権獲得から遠ざかったことの理由となった。

・戦後政治における右派と左派???右派に依存した左派

 戦後政治における左翼の特徴を捉えるためには、右派(保守)との関係において左派を相対的に見る必要もある。その際、1960年代以降保守の側が鮮明な左右対立を無化するための政治戦略を取ったことに注目する必要がある。先に引用した高畠による戦後革新の4つの柱に対応するならば、保守において1950年代と60年代との間に大きな断層がある。図式的に整理すれば、50年代の右派は、岸、鳩山などに代表されるように、プレモダン(伝統復帰)、改憲志向、軍事志向という特徴を持っていた。これに対して、いわゆる60年安保を経て成立したニューライトの路線は、池田、宮沢に代表されるように、経済発展を中軸とした近代志向、護憲志向、平和志向という特徴を持っていた。もちろん、護憲、平和という言葉の中身は、左派と右派とで異なる。しかし、憲法9条を維持し、専守防衛の自衛隊のもとで軍事的な派遣追求を否定するという国是を掲げたニューライトの護憲、平和志向は、戦後日本政治における1つの財産として評価されるべきであろう。

 また、資源配分における左右対立に関しても、日本の保守政党はある程度の平等志向を持っていたことで、この点についても左右対立はぼやかされた。最近、戦後日本の社会経済政策について皮肉を込めて「成功した社会民主主義」と呼ぶ議論がある。学問的な意味で社会民主主義と捉えることは全くの誤りであるが(山口、2004)、保守政権が分配の平等に熱心であったことは事実であった。特にそれは、農村部出身の保守政治家が、「国土の均衡ある発展」というスローガンのもとに追求した政策であった。空間的な意味での平等を追求したという点では、60年代以降の保守政権は左派的な要素を含んでいたということができる。その意味で、冒頭に掲げたボッビオの定義による左翼が、日本では明確に形成されなかったということができる。

 このように、内政、外交の両面において保守政治家の合理性が、政治における左右対立を曖昧にし、自民党による一党支配のもとでの左右の分業を作り出したということができる。即ち、実際の政権運営は保守が担い、対外的にはアメリカからの軍事的協力の圧力を巧みにかわしつつ、国内的には経済成長の果実を空間的な意味で平等に配分することが、保守政権の政策の柱であった。そして、左派は対外的には護憲に対する国民世論の支持を集めることで軍事化を抑止し、国内的には農村部の利益を保守と共同して代表し、平等な資源配分にある程度貢献した。このような意味で、戦後の左派は、保守政治の合理性や穏健性に依存していたということもできるのである。

・左派にとっての「政治」

 このような文脈において、戦後日本左翼に特有の「政治」観が形成された。政治という営みには様々なイメージがあるが、一つの重要な要素として、価値の多様性を前提とし、反対や障害を乗り越えながら物事を成し遂げるという側面がある。この政治観は、「政治とは可能性の芸術である」というビスマルクの言葉や、ウェーバーの『職業としての政治』の中で強調されている。この見方では、結果を出すことが政治の最も重要な要素とされる。しかし、既に述べたように戦後日本左翼においては、権力への抵抗、ウェーバーの言葉を使えば心情倫理が重要視された。左翼の心情主義が、憲法政治の空間においては拒否権力(veto power)を持ち、保守的権力を牽制することによって、左翼を含む多くの国民に満足できる「結果」をもたらしたという僥倖が存在したのである。

 左派のこうした政治観は、政権交代を内包する政治システムへ移行する際に、大きな障害となった。この点で、細川、村山政権時代における左派の対応について、検証しておく必要がある。以下は、個人的な体験や感懐の表明であり、学問的な議論でないことをお断りしておきたい。

 細川=非自民連立政権、社会党委員長を首班とする村山=自社さ連立政権は、左派の政治観を見るうえでの格好の試金石となった。それぞれの政権の問題点を挙げればきりはない。しかし、細川政権においては、政治改革が政権の最大公約となり、政官業の癒着構造の打破が国民的期待となった。小選挙区を中心とした選挙制度改革に対する警戒が左派の中に強かったことは当然ではあったが、非自民政権のもとで腐敗した政治に後戻りしないような制度改革を実現するという積極的な姿勢が左派に求められていたはずである。また、村山政権は自民党を含む連立であったが、政権の座に戻るために自民党は極めて低姿勢であって、それ以前の自民党は絶対に受け入れなかったような改革を実現する上では、好機であったということもできる。実際、地方分権の推進、情報公開法の立法開始などいくつかの成果はあった。しかし、大きなチャンスを逃したという悔いが残る。

 その原因として、左派に改革に関する具体的な政策構想が欠けていたこと、現実の政権運営の中で自らの主張を実現するための戦略・戦術を持たなかったことの2つが挙げられる。私自身は、日本政治にとっての大きな桎梏となっていた官僚支配と中央集権の変革に向けた第1歩を踏み出すことがこれらの政権の歴史的使命だと考え、マスメディアにおいても積極的に発言した。また、村山政権においては、首相の私的アドバイザーに加わり、首相官邸における意思決定の実態を垣間見るという機会も得た。もちろん、そうした課題について具体的な成果をあげるには、私が加わった仕組みはあまりにも不十分な体制であった。

 私のこのような状況認識が左派の知識人の間に一般的であったわけではない。その一つのエピソードとして、高畠通敏氏と私の対立を紹介したい。同氏は、この時期の私の行動に対して一貫して批判的であった(高畠通敏・和田春樹・山口二郎、1994、高畠通敏、1995)。その理由は、93年4月に政権交代に備えて9条=自衛隊問題に終止符を打つため、他の学者と共同で自衛隊容認を意味する「平和基本法」構想を『世界』に発表したこと、細川政権誕生の際、「政権交代に大義あり」という論稿を新聞に載せ、選挙制度改革と政界再編の旗を振ったたこと、そして村山政権のいわゆるブレーンになったことなどであった。高畠氏の主張には、戦後の左派的知識人の中に根強く存在した原理主義的思考と待避主義的政治観、そしてそれと結びついたユートピア主義が現れている。

 まず、9条問題についてみれば、村山首相による社会党の政策転換以来、自衛隊の正統性については完全に決着がついた。現下の問題は、これをアメリカの戦略のために無際限に海外で運用するのか、自国の防衛という役割を厳格に守るかという点にある。伝統的な護憲平和主義の枠を踏み出し、自衛隊や日本の安全保障政策に対して9条的価値を擁護する側から、具体的な政策を提起することが必要であることは、明らかである。

 次に、政治改革と政界再編の問題について反論しておく。政治学者が論壇活動をすること自体を否定するならばともかく、高畠氏自身も論壇で活躍してきたのであり、一般論として政権交代の必要性は是認していたはずである。現実に政権交代が起きるかどうかという分かれ目に遭遇したとき、まさに丸山真男が述べたとおり、局外中立はありえない。沈黙することは起きてしまった結果に荷担することを意味する。まして、93年7月総選挙の直後は、自民側も非自民側も小選挙区・比例代表並立制を提案してキャスティング・ボートを握った日本新党・さきがけを奪い合っていた。このような状況で、小選挙区制反対論を続けることは、自民党政権の継続と選挙制度の転換という最悪の組み合わせを招くことは容易に予想できた。

 また、政権への協力に関しても、高畠氏からは、首相の側近になって地方分権や情報公開を画策しているという批判を受けた。まさか同氏がこれらの改革に反対であるはずはない。自社連立のもとではどうせ中途半端なものしかできないというのが批判の趣旨だったのであろう。私には、こうした批判は、理想や純粋さにこだわるあまり、現実に一歩を踏み出すことを恐れ、議論に終始するという左派の発想を体現したもののように思えた。即ち、左派は正しい少数派の側に身を置き、現実に起こる政治現象を批判することを役割とするという発想に慣れすぎていたため、実際に政治を変える好機がめぐってきたときにこれを生かせなかったのである。実際、細川、村山連立政権の時期は、官僚制の民主化、地方分権など左派が主張してきた課題に関して政策過程の窓が開いた希有な瞬間であった。現実の政治過程の中で、右派や官僚組織が嫌う政策をどのように実現するか、いかにして議会の多数を取り、世論を味方につけ、どのようにして法案を成立させるかという政策実現手続に関する常識が、左派には欠けていた。結局、日本の左派には、物事を成し遂げる(get things done)という発想は欠如しており、「可能性の芸術」という発想は無縁であった。そのように現実の政策過程から目を背けた左派の思考に、ユートピア主義を見出すことができる(3)。

2 ポスト冷戦時代の左翼???90年代になぜ左派は衰退したか

(1)日欧の落差

 90年代は、世界的に見ても、左派の内省と自己変革の時代であった。90年代半ばまで、イギリス、ドイツでは左派は長い間の野党暮らしから、新たな政権構想を練った。そして、90年代後半には、政策的成果は別として、一応左派のルネサンスという現象が見られた。この点で、日本と西欧は対照的であった。

 その最大の原因は、日本の社会党が西欧におけるような中道左派政党への自己変革に失敗したこと、政策・理念においても、組織基盤においても、左派が再編成に失敗したことである。日欧の左派は共通した課題に直面していた。第1に、保守政党による長期政権がもたらした政治の腐敗や停滞に対して、どのような政治改革を実現するかという問題。第2に、経済のグローバル化に対して、新保守主義的なアジェンダ以外にどのような政策を対置するかという課題。また、日本の左派に固有の問題として、冷戦崩壊後の世界情勢に対して、従来の平和主義をどのように適応させ、外交安全保障政策のイノベーションを諮るかという問題があった。西欧の左派は、少なくともレトリックの上では、第1,2の課題に対するそれなりの答えを打ち出し、政権を奪回した。

 90年代には、冷戦の終結、社会主義体制の崩壊によって、55年体制におけるような左右対立の基盤も失われた。それは左派にとって、政治を変革するためのより広い基盤を形成するための機会をもたらした。90年代初頭、保守の側から政治改革、官僚支配の打破、平和主義のリニューアルを求めて、新しい政治勢力が現れた。もちろん、その中には新自由主義や国家主義的な方向で自民党政治を否定しようとする者も存在した。しかし、日本新党の一部や新党さきがけには、中道左派と提携することが可能な者が存在した。しかし、左派の側は新たな政権構想を描くことができなかった。以下、政策面に関して左派の不適応を説明しておきたい。

(2)90年代における左派の不適応

・ポスト冷戦時代における憲法政治の変容と左派

 冷戦の終焉は、決して平和な世界をもたらさなかった。むしろ、それとともに日本の平和主義は混迷していった。90年代の地域紛争は善と悪、正義と不正の対決という性格を持つ、あるいは少なくともそのような演出や意味づけが容易になった。たとえば湾岸戦争は明らかにイラクによる侵略を契機に起こったものであるし、旧ユーゴスラビアやルワンダにおいて虐殺についても、平和の理念を叫ぶだけでは埒が明かないことははっきりしていた。紛争が善と悪の対立という性格を持つとき、中立という態度は道徳的に正当化されない。国際社会の一員として、日本も侵略や虐殺を止め、その首謀者に制裁を加えることに協力することが要請される。侵略や殺戮を行う独裁者に対して、話し合いは無意味であり、話し合いで解決できなければ軍事力を使ってでも侵略者を排除し、虐殺を止めることが必要となるという主張が勢いを得る。かくして、憲法九条は夢想家の空論ではないかという論調が、冷戦後に強まったのである。

 さらに、東アジアにおいては、冷戦は終わっていない。90年代には、社会主義体制の崩壊によって国際的に孤立した北朝鮮が核兵器の開発を進め、周辺に大きな脅威を与えるようになった。多分に情報操作の結果という面もあるが、この軍国主義的独裁国家を相手に憲法9条に基づく話し合いの路線は有効ではないというのが、多くの国民の実感である。

 国際社会において正義や人道を実現するために日本はどのような役割を担うのか、その際軍事的手段が必要となったとき憲法9条を持つ日本は何をするのかという問いを、日本は湾岸戦争以来突きつけられてきた。9条の縛りをはずしたいと考えてきた新たな右派=改憲派にとっては、この問いに答えを出すことは簡単であった。ただ「9条は役に立たない、日本も軍事的貢献をしよう」と叫んでいればよかったからである。9条を守ろうとする左派は、こうした逆境の中で、国際紛争の解決や平和の創出にどのように取り組むかという難問に取り組まなければならなかった(最上敏樹、2001)。そして、この問いに対する答えを出せなかったところに、護憲勢力の衰退の原因がある。

 また、日米安保体制の変容も左派の混迷に拍車をかけた。北朝鮮を除き、日本にとっての軍事的脅威が消滅した現在、日米安保条約も当初の歴史的役割を終えた。アメリカは安保条約を冷戦後の時代に活用し、アメリカの世界的軍事戦略を支えるための仕組みへと変質させた。自衛隊は日本を守るための実力組織ではなく、直接戦闘に参加しないまでも、世界各地における米軍の行動を兵站、情報収集などの面で支援するための部隊へと変質した。こうした日米安保の変質に、なす術なく追従したことは、左派の責任ではない。専守防衛の自衛隊を日米安保で補完するという保守政権の伝統的な安全保障の枠組みが破綻したとき、保守の側からはそれを前向きに展開するような政策は出されなかった。そして、左派も政権参加と従来の平和主義との間に整合性をつけるという後ろ向きの作業にエネルギーを取られ、9条の理念を冷戦後の現実に適合させるような新しい政策を打ち出すことはできなかった。

・改革の時代における左派の不適応

 次に、内政についてみると、平等志向的な保守が築いてきた再分配の仕組みを改革するという課題について、左派が何らのビジョンをも示すことができなかった点に敗因が存する。この間の議論は、拙著(山口、2004)に譲るが、ここでは最低限の説明をしておきたい。

 既に述べたように、日本の社会経済政策は、成功した社会民主主義と呼ばれる。この議論の要点は、次の二つに要約できるであろう。第一に、日本では所得分配がかなり平等で、戦後の経済成長の中で、生活様式や生活水準に関して平準化された社会を作り出した。第二に、規制や公共事業を通して経済に対する行政の介入、干渉が大きく、純粋な市場経済ではない。

 ただし、自民党が追求した平等の中身は、持てるものと持たざるものとの格差是正を追求した本来の社会民主主義とは異なることを理解しておく必要がある。戦後の自民党にとって最も重要なスローガンは、「国土の均衡ある発展」であった。これは日本全体の空間的平等を表す言葉であった。そして、空間的な平等を実現するための最大の手段が公共事業であった。公共事業のうち国直轄のものは少なく、大半は地方自治体の事業である。中央政府や地方における公共事業予算を補助金という形で配分していた。また、一般財源として配分される地方交付税が公共事業の地元負担分を支えた。所得格差の縮小や生活様式の平準化は、こうした空間的平等の波及効果として現れたということができる。

 特に平等を実現するための政策手段に着目すると、本来の福祉国家にあるべき普遍主義的な社会政策が貧弱であり、補助金、護送船団方式の規制など裁量的政策が大きな意味を持っていた。裁量的政策をえさに支持を引き出すことこそ、保守政党による長期安定支配の根源であった。

 日本型社会経済政策は、1980年代に一応目標を達成し、「総中流社会」が形成された。しかし、90年代に入ると、経済のグローバル化の圧力のもとで、様々なきしみや綻びを露呈するようになる。規制緩和の趨勢の前に護送船団を維持できなくなったこと、バブル崩壊以後の財政悪化によって地方への支出を維持できなくなったこと、公共事業や許認可を舞台にした構造的腐敗が露呈されたことなどがそれである。そして、90年代前半には、腐敗し、硬直化した「日本的」社会民主主義の政策に対し、市場原理によって解体する新自由主義の路線か、本来の社会民主主義へ純化する路線かが問われたのである。日本では新自由主義的な言説が強かったが、急速な高齢化によって社会保障に対する国民の不安や関心が高まっていた中では、社会民主主義的な政策が支持を得る可能性も存在したはずである。しかし、左派は国内経済政策に関しても、説得的な改革のビジョンを示すことはできなかった。改革は新自由主義のシンボルとなったのである。

・90年代政党再編の不毛

 かくして、左派は90年代の政策的挑戦にこたえることができず、知的威信を失った。社民党は分裂し、中道左派的な志向を持った政治家は民主党の結成に加わった。しかし、民主党の中で主導権を取るには至らなかった。また、社民党はもはや護憲を掲げるシングル・イシュー政党になり、現実政治にはほとんど影響力を持ち得ない。選択肢不在の状況では、政党再編が不毛なものに終わるのも当然である。
 
 他方、衆議院選挙における小選挙区制の定着により、小政党の淘汰が進みつつある。今後、日本政治の中で左派的なものをどう残すかが、実践的な課題となる。

結び 左翼の今後担うべき役割

 最後に、今後の日本政治において左派が担うべき役割について、簡潔に展望を述べておきたい。以下は言うまでもなく、同時代の日本政治に対する私個人の規範的な言明である。

 21世紀前半の日本政治において、左派は不要であるとか、左派の居場所はないとは、私は考えない。また、自民党と民主党による二大政党制の成立が、政策的差異のない保守二大政党制につながると他人事のように予想する議論にも与しない。現実政治を論評する政治学者で、保守二大政党制を良しとしない者は、そうさせないために今何をなすべきかを論じることが必要である。
左派が必要とされる最大の理由は、従来左派の甘えを許してきた保守の統治理性が消滅し、戦後政治という枠組みが崩壊していることである。戦後政治の崩壊には、さらに、?保守の劣化と憲法の危機、?アメリカ一極主義への追随、?新自由主義と不平等社会の出現という3つの要素がある。
本報告では左派の失敗について悔恨を込めて批判的に論じてきたが、90年代以降の保守政治の劣化も深刻である(薬師寺克行、2004)。戦後政治の枠組みの形成に参画した政治家はもはやすべて引退し、安倍晋三や石破茂に代表される二世、三世の政治家が保守のリーダーとなりつつある。これらの政治家はその出自や経歴からして、社会の底辺を知らず、普通の人々の経済的苦労も知らない。そして、半人前の国家としての戦後日本の憲法や安全保障政策を転換することに、政治家としての使命を見出している。これらの政治家は、保守政治の美徳である熟慮、慎重、懐疑などといった特性とは無縁であり(4)、日本版のネオコンと呼ばれることにも理由がある。
経済的利益によって国民を統合することが困難になりつつある中で、右派は伝統や国家主義イデオロギーによる国民統合を図ろうとしている。憲法や教育基本法改正論議の狙いは、そこにある。立憲的自由民主主義の大前提をまったく理解しない右派が、憲法改正の論議を進めていることは、日本の民主主義にとっての危機となる。

 第2の対米追随は、第1の要素と密接に関連している。90年代から日米安保体制の変質は進んだが、21世紀にはいってブッシュ政権による一極主義的な軍事行動に日本はいっそう深く組み込まれる道を選んだ。冷戦時代に日米軍事同盟は日本に一定の利益をもたらしたという評価も可能である。それは、好意的に評価するならば、戦後保守政治家の持っていた狡賢さの所産ということになろう。現在の右派政治家は、冷戦終焉後の世界において日米安保体制をさらに強化し、日本の安全や経済的利益よりもアメリカの利益を追求していると捉えることができる。アメリカの最も忠実な従卒になることが、むしろ日本の安全や利益を脅かしている。

 第3は、国内の社会経済システムの変化に関わる問題である。経政会的な利益政治が社会民主主義的なセーフティネットの役割をある程度代替していたことは、既に述べたとおりである。今日、構造改革の名のもとにそうした政策の縮小が進んでいる。リスクの個人化が進む中、経済的な格差が拡大する一方で、普通の生活者にとってのリスクは増大している(橘木俊詔、2004)。とくに、教育、医療、雇用などの面における公共サービスの劣化により、機会の平等が脅かされるに至っている。今や日本は、アメリカ型の経済社会への道を選ぶのか、別の道を求めるのかという岐路に立っているということができる。

 こうした状況において、外における平和、内における平等を組み合わせた左派的選択肢の必要性は大きい。小泉、さらに若手の政治家のもとで、右派が新自由主義と軍事的肥大化を組み合わせたアジェンダを追求する時に、政策的対立構図を描くことは、ある意味では容易である。左派が政策アジェンダを論じるとき、主たる名宛人は民主党とならざるを得ない。民主党の保守性や雑居性を批判することは容易である。しかし、この党の中に社会民主主義的な理念・政策に関心を持つ政治が一定数存在することを無視すべきではない。民主党を第2保守党と突き放す議論は、この党の中の相対的な左派を孤立させることを通して、自己実現的予言となることを指摘しておきたい。もちろん、左派の担い手は民主党に限る必要はない。共産党や社民党を含めた左派の側の再編成の可能性を追求することに、大きな意義があることを最後に付言しておきたい。


(1) もっとも、社会党が最初からマルクス・レーニン主義の党であったわけではない。1945年の結党に際して、この党の名称をめぐる左右の論争があり、日本語は社会党、英語名はSocial Democratic Party of Japan とすることで妥協が図られた(石川、2004)。
 また結党時の最有力のリーダーの一人であった西尾末広は、後年、民社党を結成した後、石川真澄の「いつ社会党に戻るのか」という質問に対して、「社会党は自分たちが作ったので、戻るのは向こうのほうだ」と答えた(石川、1997)。西尾のこうした強がりに理由がなかったわけではない。
(2) オリジナルな戦後民主主義を語るとき、石橋湛山のように保守の側にあっても戦前から一貫して軍国主義と戦い、平和と民主主義を擁護した政治家をどのように評価するかは、戦後左派においてあいまいにされていたように思われる。この点は、冷戦が崩壊し、保守・革新の垣根が崩れた後、護憲や平和を志向する勢力を糾合するという課題に取り組む際の障害となった。
(3) 結果責任の重要性、心情倫理の危険性などについては、丸山真男など戦後啓蒙の知識人が、さかんに啓蒙していた政治学の最も重要なレッスンだったはずである。左派は、啓蒙知識人の教えを実は十分理解していなかったということもできる。
(4) 私は、これらの若手右派の政治家を見ていると、石原吉郎の次の文章を思い出す。
「(シベリア抑留中)作業現場への行き帰り、囚人は必ず五列に隊伍を組まされ、その前後と左右を自動小銃を水平に構えた警備兵が行進する。行進中、もし一歩でも隊伍を離れる囚人があれば、逃亡とみなしてその場で射殺していい規則になっている。(行進中つまずくか、足を滑らせて、列外へよろめいた者が何人も射殺された)。中でも、実戦の経験が少ないことに強い劣等感を持っている十七、八歳の少年兵に後ろに回られるくらい、囚人にとっていやなものはない。彼らはきっかけさえあれば、ほとんど犬を撃つ程度の衝動で発砲する。」(『望郷と海』、ちくま文庫版、1990年、36−37ページ)
まさに、安倍や石破がこの少年兵に重なって見えるのである。


引用文献
Bobbio, Norbert, Left and Right, Polity, 1996
石川真澄、1997、『人物戦後政治』、岩波書店
     2004、『戦後政治史』、岩波書店
高畠通敏、1995、「保守2党の間に沈む社会党」『エコノミスト』1995年1月10日号。
高畠通敏・和田春樹・山口二郎、1994、「座談会:戦後革新−−総括と展望」、『世界(臨時増刊号)キーワード戦後日本政治50年』
橘木俊詔、2004、『封印される不平等』、東洋経済新報社
中北浩爾、2002、『五五年体制の成立』、東京大学出版会
丸山真男、1961、『日本の思想』、岩波書店
最上敏樹、2001、『人道的介入』、岩波書店
薬師寺克行、2004、「自民党は極右政党になるのですか」、『世界』2004年10月。
山口二郎、2004、『戦後政治の崩壊』、岩波書店

Comment:
2004/10/10 12:18 AM, 右近 wrote:
 こんばんは。山口先生の論考を読んで考えたことを書きたいと思います。  まず、「憲法第9条の価値を実現するための具体的施策を提示することが左派に求められている」という内容の議論をされていますが、「憲法第9条の価値を実現するための具体的施策」とは、どのような施策のことを指すのでしょうか。山口先生の言う「具体的施策」とは、「現実的な政策実現手続を踏まえた施策」を指すように思います。ただ、現在において「具体的」という言葉が無批判に使われていると考えます。「具体的」という言葉を辞書で引くと「物事が実体を備え、実際の形体や性質をもっているさま」と書いてありますが、価値や理念と、具体的施策の関連を論じていく必要があるのではないでしょうか。具体的施策を一方的に強調して論じることは、個々の問題の解決に終始し、価値や理念を置き去りにすることにつながると考えます。  次に山口先生は「自衛のための軍備」を否定しない立場だと考えますが、私は「自衛」を名目として軍備を持つことを正当化できるのだろうかという疑問を持っています。例えば、「自国を守るため」と称して他国に侵略することが、しばしば歴史上、行われてきました。自国の防衛のための軍備を持つことを否定することは困難です。しかし、「自衛」という概念が他国への侵略を正当化する根拠として使われることがないようにしていく必要があると考えます。  私は、山口先生の著書をきちんと読んだことがなく、個々の論文や論考しか読んでいないのですが、これから山口先生や、他の先生方の著書を読み、社会問題への認識を深め、社会問題の改善に向けて努力したいと考えています。それでは、またよろしくお願いいたします。
2004/10/26 5:16 AM, 工藤  恒男 wrote:
全くの素人が批判めいたことを述べるのはおこがましいと思うが、私は先生より23歳年上だから年の功でご容赦願いたい。 放送大学の講義、多くの著作などで先生の論調には感銘し賛同するところが多いが、自衛隊については異論がある。日本国憲法が周辺諸国への詫び状的性格を持つのは当然で、これは講和条約締結、独立の大前提であったと思う。憲法9条の価値は第2項にあると思う。第1項はすでに1928年に約束されたことであり、それを破った日本が第1項だけで許されるはずはない。第2項には「自衛の場合を除く」などとは書いてない。 憲法前文にあるように「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」のである。ところが、自衛隊を作ることで日本は自ら信義を破ってしまった。いまや自衛隊を「軍隊ではない」と考える人は少ないと思う。これでは諸国民の信義に信頼することは出来ない。警察予備隊を作ったのは占領下の止むを得ない措置であったし、独立後もアメリカの庇護を受けるためには必要であったとしても、冷戦終結後は速やかに自衛隊を解散すべきであったと思う。 「最小限の自衛力は必要」と言う論者は多いが、911でも分かるように先制攻撃を防げる自衛力などあり得ない。持てるのは報復攻撃力だけである。だから、自衛隊は不要であり、信義にもとるという意味で有害なのである。 自衛隊なしでどうして国を守るか? フランス革命の後、イギリスに暴力革命が何故起こらなかったかがヒントになる。断頭台に引きずり出されたフランス貴族の姿に危機感を感じたイギリス貴族が自制心を働かせた。その結果は池田潔が「自由と規律」に描いたような「規律」としてイギリス社会の伝統となった。 日本は正に「国敗れて山河あり」の状態から30年ほどで世界の貴族になってしまった。その上周辺諸国の低賃金の上にあぐらをかいている。マルクス流に言えば周辺諸国の人民を搾取しているのだ。これに反感を持たないほうが不思議だ。北朝鮮の拉致や核開発を非難する前に日本はもっと自制しなければならないと思う。平等を目指すことが左派の責務であるとするならば、世界の不平等を少しでも緩和することに努力しなければならない。 貴族は全財産を投げ出さなければ平民として生き残れない。イギリス貴族がフランス革命に危機感を感じたように日本は911に危機感を持たなければならない。 今世紀なかばに想定される食糧争奪戦争を未然に防ぐために、幸いにして「軍隊を持たない」と憲法に明記した日本の役割は大きいし、一刻も早く行動を開始する必要があると思う。
2004/11/02 3:15 AM, ふわふわ wrote:
こんばんわ、山口先生の論文を初めて読ませていただき、改めて社会民主主義的思想というものを考えさせられました。 「今後の日本においては、しっかりとした左派が形成され、右派に対峙すべきだ」というのが、先生の論旨であると私は受け取ったのですが、そこで私が疑問に思うのは、「そもそも右・左とは何か、今後の日本民主主義を考える上で必須の体系なのか」という根本的な疑問です。 といいますのは、今年で32歳になる私ですが、今までの人生の中で、まともな右派・左派というものを知らない、そういった体系に対して無頓着であるがために、その必然性についてもいまいち実感が持てないという事なのです。 確かに先生のおっしゃる通り、戦後政治において、右派は「社会民主主義のようなもの」を確立し、左派は「絵空事を叫ぶだけ」だったというのが現状で、それは本来の保守/革新の有り様ではないのでしょう。 しかしまた、私の実感としては、日本のような、戦争に負ける事によって民主化「させて頂いた」という、特殊な事情を持つ国においては、保守/革新両袖という構図を、欧諸国民のように実感として受け入れられるものなのか、という疑問があるのです。 現時点においても日本国内においては心情的に、右が革新的に見え、左が保守的に思えます。さらに言うなら、”左派”というのは「靖国参拝を否定し、民族的に自虐指向であり、護憲論者の、”斜陽”な人々」というイメージ付けがされているように思えます。もちろんこれは原理的な位置づけからはかけ離れているものでしょう。それはまた左派だけではなく、相対的に右派もしかりなのでしょう。 では、日本政治の将来において、収まるべきものが本来の場所に収まるとはどういうビジョンであるべきなのか?またその上で「超党派」的な議論の場はどのように設定されるべきであるのか?そしてそのビジョンは日本の民族的歴史になじむものであると説明できるか?(右派、左派は今後の日本において、理念的に機能すると言えるのか?) これが今の私の疑問です。
2004/11/02 9:59 AM, 工藤  恒男 wrote:
ふわふわさんへ。 左派と右派については様々な考えがあり決定論的なものはないと思いますが、山口先生は「平等を求める」(左派)と「求めない(競争を求める)」(右派)とに分けておられるように思います。言い換えると左派は弱者(貧乏人)であり、右派は強者(金持ち)とも言えるのではないでしょうか。平民対貴族、労働者対資本家がその象徴でしょう。 弱者(貧乏人)は強者(金持ち)を羨み妬ましく思って平等ならもう少し生活が楽になるだろうと考え、強者(金持ち)は自由に競争すればもっと金持ちになれると思うのでしょう。 日本人が総体的には金持ちになった結果、ふわふわさんたちが「必然性について実感が持てない」のは当然だと思います。石川真澄氏の「戦後政治史」にもあるように1950年代からの高度成長によって日本の左派は衰退しました。 みんなが金持ちになれば「平等を求める」必要はないように思えます。しかし、「平等」の考え方は複雑です。山口先生の著書にも「機会平等」と「結果平等」について説明があり、先生は「機会平等」であれば「結果不平等」でも止むを得ないとされているようです。ここが、先生と私の意見の分かれるところです。確かにスタート時点で平等なら機会平等だけでよいのですが、不平等からスタートすると不平等は再生産されてしまいます。 平等が必要な根本の理由は平和のためです。戦争は必ず「正義のため」に起こります。現在のイラク戦争でアメリカは「正義のための戦い」と云っていますが、911テロも(手段の良し悪しは別にして、立場を換えれば)アメリカの横暴を見るに見かねた「正義の戦い」だと思います。フランス革命も「自由のため」「正義のため」と言われていますが、貴族社会から見れば「とんでもない邪悪な戦い」であったと思います。このような戦いの根本原因は羨みや妬みだと私は思います。 完全な平等は作り得ないとしても平等に近づけば争いは減ると思います。多少の不平等なら相手をなじる程度で済みます。極端な不平等になると暴力をふるいたくなるのだと思います。 平等の範囲をどこまで考えるかも「平等の考え方」を複雑にしています。日本人の間だけが平等であればよいのか、世界中の平等を考えるのか。戦争をなくすためには日本の中だけの平等では不足です。世界の中の不平等を少しでも緩和すること、この場合は特に「機会平等」より「結果平等」を優先させなければならないと私は思います。 「保守・革新の構図」は戦後出来たのではなく、明治・大正時代から存在します。「靖国参拝」は不平等の象徴なのです。また、「民族的」と言う言葉の使い方には注意が必要です。詳しくは関曠野著「民族とは何か」(講談社現代新書)が参考になると思います。 「日本政治の将来において収まるべきもの」を強いて言うなら、左派と右派の適度のバランスだと思います。世の中から貧乏人と金持ちがいなくなることはあり得ないでしょう。そのためには「しっかりとした左派の形成」が必要ですが、左派が永久政権とならないよう右派も大事です。これは社会主義国であっても左派と右派が存在しなければならないと言う意味です。 ふわふわさんは32歳とのことですから在職中で読書の時間は取りにくいと思いますが、山口先生の著作だけでなく最近の岩波新書には良いものが沢山あります。是非お読み頂きたいと思います。(私は岩波書店とは無関係です)
2004/11/07 7:10 AM, ふわふわ wrote:
工藤さん、レスありがとうございます。いろいろと勉強になりました。 「左派と右派の適度のバランス」と云うと、一見馴れ合いのように思えますが、そうではありませんね。小泉さんも折々に「民主党にも頑張ってもらいたい」というような発言をしていますが、あれは、ある程度本心だと思いますもの。 最近、右寄りの勢いが感じられる中で、(それはそれで良いとは思うのですが)私がそれを見て感じるのは「平和に対する認識が一方通行である」という事です。平和というものの認識の仕方が、結果論、あるいは客体としてしか見えてこない気がします。 主体的に平和を認識することは不可能なのか?あるいはもしかしたら平和とは中庸なものと捉えればよいのか(これは平和ボケという言葉と紙一重ですが)。確かに将来における「適度のバランス像」というものを考えさせられてしまいます。
2004/11/07 10:18 PM, 工藤  恒男 wrote:
ふわふわさんへ 私のコメントを真面目に読んでいただいたようで感謝します。 「平和に対する認識が一方通行である」と言うことの意味が私には理解できないのですが、私の平和についての考え方を説明します。「平和」についても色々な考え方がありますが、とりあえず「戦争のない状態」とし、「戦争」についての説明は省略します。 戦争は人命と物資の消耗であり、人類全体から見れば望ましくないことは明らかですが、戦争を必要とする人たちも沢山います。地球上から戦争を排除しようとする運動は長い間続けられてきましたが、全て失敗しています。従って恒久平和は空想論だといわれても仕方がないと思います。現状で出来ることは戦争を早期に停戦に持ち込み、停戦状態を出来るだけ長引かせることだろうと思います。 地球上から戦争を排除する一つの方法は世界最強の国連軍を作り、反抗する国を撃破し、各国を武装解除することでしょう。日本でも明治維新によって各藩を武装解除させた結果、国内戦争はなくなりました。現在アメリカが考えているのは国連軍では頼りにならないから自国の軍隊を国連軍の代わりにしようとしているのだと思います。しかし、この場合はアメリカと軍事同盟を結び、ある程度アメリカの言いなりになるしかありません。 私が考えているもう一つの方法は争いごとを始めた人たちを聖なる場所に丸腰で集め、話し合いで解決をはかると言う、世界各地で昔から採用されて来た方法です。しかし、この仲介役を買って出るためには丸腰が必要であることは当然ですし、争っている人たちから尊敬される立場でなければなりません。幸い、日本は憲法で軍隊を持たないとしているのですから自衛隊を解散すれば一つの条件は満足します。その上で世界の人々から尊敬されるような行動をしなければなりませんが、残念ながらこの半世紀の間、世界の人たちから軽蔑されたり憎まれたりすることばかりやって来ました。ですから、これから長い時間をかけて大変な努力をしなければならないと思います。 では何故そんな努力までして平和を求める必要があるのか? 私が一番心配しているのは、今世紀半ばに起こるであろう食糧争奪戦争です。この戦争の結果、食糧生産は激減しますから勝っても負けても悲惨な状態になるでしょうし、軍事的には世界最強の軍隊でも兵糧攻めには敵わないでしょう。参戦するかしないかに拘わらず、食糧自給率の低い日本は瞬く間にやられてしまうでしょう。しかもこの戦争が起こる頃、私は勿論、山口先生も多分、草葉の陰です。直面するのはふわふわさんたちやその子供たちです。是非、「平和」について真剣に考えていただきたいと思います。
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