2004.01.16 Friday 23:00

02年5月:小泉政権は日本をどこに導くのか

 通常国会の終盤になって、小泉政権は有事法制、いわゆるメディア規制三法案、郵政民営化法案など重要法案を次々と国会に提出した。特に有事法制とメディア規制関連法案は、権力と市民の関係を大きく変える法案である。これらの法案が成立すれば、政府の判断によって国民の権利を大幅に制約したり、ジャーナリズムによる言論活動を抑制したりすることが起こりうる。したがって、今後の日本の民主政治に対する影響は極めて大きい。これらの法案をめぐる議論の中で、発足から一年経ち、当初の人気が色あせてきた小泉政権の本質が問われている。

 まずこれらの法案の中身を論じる前に考えておかなければならないことがある。それは、今年の通常国会が始まって以来、政治家やその腹心の秘書が違法行為を平然と行っていることが次々と露見し、政治に対する信頼が地に落ちたときに、なぜこのような国家権力を強化するような法案を提出するのかという疑問である。政治を担う指導者が権力をかさにきて悪行を働いていたことが露見したときに、さらに政府にジャーナリズムを規制する権限を与えれば、権力者の旧悪を隠蔽するために使おうとするのではないかと疑うことこそ自然な反応である。実際、今話題を呼んでいる「鈴木宗男研究」だって、個人情報の漏洩として取り締まりの対象になるかもしれないのだから。

 有事法制を推進する政治家や官僚は、戦乱状態の時に自衛隊が違法行為をしなければ活動できないようでは困ると主張する。彼らがあくまで法治国家の原則に忠実なのは結構である。しかし、彼らが本当の遵法精神を持つならば、「万が一」の事態における遵法システムを議論するよりも、今目の前にあるあまたの違法、脱法行為を摘発し、是正することの方が先ではないか。公共事業をめぐる談合やあっせん、公設秘書制度の悪用による公金の着服などは政界の常識であり、最近摘発されたのは氷山の一角でしかないことくらい、誰でも知っている。非常時においても法治主義を守ろうという政治家が、なぜ日常の違法行為を黙認、あるいは荷担しているのだろうか。政治の世界が法を尊重し、違法行為を恥じるようになって、初めて有事法制の議論は国民に受け入れられるのである。

 今回提出された有事法制の案は古典的な国家間の戦争を前提としたものであり、議論のための議論でしかない。国民の安全を脅かすもっとも現実的な脅威は大規模災害とテロである。これについては阪神大震災とオウム真理教によるテロという二つの大きな教訓を踏まえ、警察や自衛隊の役割と活動の手続きを整備すべきである。しかし、今回の有事法制案はそうした面倒だが重要な作業を回避し、防衛庁所管の事項だけに限定された。この過程を見て、私は、夜道で財布を落としたとき、街灯の下だけで財布を探すという笑い話を思い出した。まさに有事法制案は、もっぱら防衛庁と防衛族議員の自己満足のために作られたといってもよい。

 小泉政権は日本国民をどこに導こうとしているのであろうか。聖域なき改革を唱え大きな期待を集めながら、経済再生では見るべき実績もなく、結局民主主義を危うくする法案の成立という成果しかあげられないとするならば、それは詐欺に等しい。今の日本にとって何が必要かをよく考え、国会に並べられた法案の優先順位をつけなおすべきである。

2004.01.16 Friday 22:59

02年3月:鈴木宗男問題をどう考えるか

このところ鈴木宗男氏の「旧悪」が新聞、テレビに載らない日はない。鈴木氏が体現する利権追求型の政治の実態が明るみに出たことは歓迎したい。しかし、不思議なもので、鈴木的政治を何年も前から批判してきた私は、全国的なメディアで鈴木バッシングがこれでもかといわんばかりに続くと、ちょっと待てと言いたくなる。いまさら鈴木氏を擁護するつもりはないが、鈴木氏が日本のビンラディンのように悪の形代に仕立てられ、政界の穢れを一身に捨てられることは、日本政治のもっと大きな欠陥をかえって覆い隠し、真に責められるべき人々を免罪する結果になると思う。

 第一の問題は、官僚による情報操作の問題である。鈴木氏が官僚を恫喝したり暴力を振るったりしたというのは言語道断だが、それに関する情報がなぜ今堰を切ったように溢れ出すのか。日本の外交政策の決定過程を正常化したいのなら、外務省改革を唱えた田中前外務大臣に対してなぜこのような情報が上げられなかったのか。政治的風向きを見ながら自らの保身を図ろうとする外務官僚の体質は変わっていない。

 より大きな問題は、利権構造そのものに切りこめるかどうかという点である。公共事業の発注や役所の調達に政治家が介入して特定の業者を押し込み、利益を上げた業者から政治献金を還流させるという手法は、鈴木氏に固有のものではなく、自民党政治そのものである。今回、鈴木氏と時を同じくして、加藤紘一氏の秘書の脱税事件や徳島県知事の収賄事件が発覚した。いわば今の公共事業は腐った魚であり、利権を求める政治家や秘書は魚の周りを飛び回るハエのようなものである。ハエに説教をしても始まらない。魚の方に工夫を加えて腐らないように、またハエから隔離するような手立てを考えなければならない。

 鈴木氏一人の首を取ることで野党やメディアが満足するならば、利権政治の全体像にはメスを加えることができない。鈴木氏を選んだ北海道から、鈴木的政治を終わらせるための具体的な提言を発信すべきである。財源が中央省庁に集中し、どこの事業に予算を付けるか担当部署の裁量によって自由に決められるという現状がある限り、第二、第三の鈴木宗男が現れるに違いない。この際、財源を含めた根本的な地方分権を進めることこそ、政治腐敗根絶の最大の鍵となるのである。鈴木氏のせいで北海道は政治家に頼って無理やり公共事業を持ってくるところというゆがんだイメージが広まった。改革に向けた北海道の責任はひときわ重い。

 最後に、最近話題を読んでいる政と官の問題について触れておきたい。政治主導とは、政策の枠組や方向性について政治家が指導力を発揮することである。出来上がった制度は官僚が公平に運用すべきである。この構図を入試制度にたとえるならば、政治家の役割はどのような哲学でどのような方法の試験を行うべきかを論じる点にある。官僚の仕事はその種の圧力を無視して、あくまで公平に試験を行う点にある。具体的な試験において特定の受験生を合格または不合格にするよう圧力をかけるのは政治主導ではなく、単なる不正である。

  このような政治と行政との役割分担をめぐる混乱は、国だけではなく地方においても存在する。それぞれの立場において、自分の問題として改革のあり方を考える必要がある。

2004.01.16 Friday 22:58

02年1月:アフガン戦争をめぐって

東京で開催されたアフガン復興会議は成功のうちに終わった。見捨てられた国アフガニスタンに先進国が目を向け、生活の安定と秩序の回復のために協力することは喜ばしいことである。この会議の成功のために尽力した緒方貞子氏をはじめとする関係者の努力には賞賛を惜しまない。

 しかし、アフガン問題が復興というハッピーエンドに終わることによって、我々は重大な問題を見落とそうとしている。第一は、アメリカによる制裁戦争の犠牲である。タリバン政権崩壊以後アフガニスタンから入ってくる映像は、すべて解放を喜ぶ人々ばかりであった。アメリカ軍の空爆によってどれだけの犠牲が出たのか、爆撃が一般市民にどれだけ大きな傷跡を残しているのかを伝える情報はほとんどない。私の見る限り、辺見庸氏の報告が唯一のものである。アフガニスタン解放から復興へという物語の中で、気前のよいパトロン役を演じるのが日本の役割なのだろうか。

  アフガニスタンへの空爆がテロリストに対する正当な制裁や今後のテロの抑止につながったのかどうか、答えはまだ出ていない。タリバンを蹴散らしたことでアメリカの面子は一応保たれたが、真の首謀者とされるビン・ラディン氏を捕まえるまではアメリカの世論が収まらない。今年中間選挙を控え、支持率を気にするブッシュ政権は、国内政治における権力維持の観点からビン・ラディン討伐のための戦いをあちこちで行わざるを得なくなるかもしれない。仮にアメリカがソマリアを攻撃し、現地を灰燼に帰した後は、また復興会議を開いて各国に自らの破壊の後始末を手伝わせるのであろうか。

 アフガン復興に関連して感じるもう一つの疑問は、自衛隊の役割である。日本はアメリカによる制裁戦争に協力するために、自衛隊を派遣した。しかし、戦争が予想以上に早く終わったため、自衛隊の活動が注目を集めることはなかった。世論の関心が復興に向いているため、自衛隊を派遣したことの是非を問うことも忘れ去られている。自衛隊派遣の現実的意味を問うことなしに、派遣の事実だけが定着することは日本の将来に禍根を残すであろう。

 アメリカが次なる軍事行動を起こしたとき、日本は再び「ショー・ザ・フラッグ」と迫られるにちがいない。その時にどんな旗を掲げるか、今から考えておかなければならない。アメリカのために自衛隊を中東やアフリカまで派遣することが常識ではない。人道という価値を旗印(フラッグ)に掲げることこそ、日本の責務だと思う。

 自衛隊の海外派遣が既成事実となった今、今度は有事立法をめぐる議論がさかんになった。 先日の不審船事件も、有事立法が必要な理由として援用されている。有事立法は自衛隊や警察の行動のために人権を制約するという部分を持つ。だとすれば、自衛隊や警察の透明性を高め、それらが本当に国民のために行動しているかどうかを検証することが、有事立法検討作業の大前提となるはずである。不審船事件の再、海上自衛隊は早く情報をつかんでいたにもかかわらずそれを的確に政府に伝えなかった疑いなど、自衛隊には不可解な点もある。国会論戦でそうした透明化を進めることこそ政治の使命である。

2004.01.16 Friday 22:56

01年12月:構造改革と北海道

 小泉構造改革の具体的な中身が次第に明らかになってきた。もちろん、最終的な決着は、既得権を守ろうとする族議員との妥協の産物という性格を免れない。表面的な改革と聖域の温存という従来のパターンは踏襲されている。しかし、道路公団・本四架橋公団をめぐる一連の政策論議を見ていると、ついに地獄の釜の蓋が開いたという感想を持つ。私は小泉首相の政権運営については反対することがほとんどであるが、今まで先送りされてきた問題について敢えて議論の俎上に載せ、痛みの配分について考えさせるという一点では、まだ評価している。高速道路や本四架橋など、責任の所在があいまいなまま借金を積み重ねてきた事業について、もはや我々は逃げ回ることはできない時点に来ているのである。

 そんな折、本紙に二五日から、国土交通省事務次官のインタビューをはじめとする公共事業の限界を問う連載が掲載された。実に時宜を得た企画であり、北海道でも地獄の釜の蓋が開いていると痛感させられた。中央省庁の政策担当者にとって、もはや北海道は四七都道府県の一つに過ぎない。開拓や資源供給といった国策が過去のものとなった今、北海道を特別扱いする理由はないというわけである。北海道に対する中央からの投資は今後減少するという前提で、地域経営のあり方を考えなければならない。国の財政は打ち出の小槌ではなくなっているのである。

 では、北海道はどのような戦略で現状を打開すればよいのか。手前味噌で恐縮だが、先日北大で開かれた自治学会で、私は「一国多制度」という報告をした。従来の分権を超えて、国の出先機関を統合した新たな地方政府を北海道と沖縄で先行的に作ろうという提案である。これは決して絵空事ではない。中央省庁が北海道の面倒を見きれないと脅かしているときこそ、この制度を実現するチャンスである。たとえてみれば、霞が関という親元から遠く離れた北海道という子供は、実家の衰退を機に、衣食住を切り詰めても新しい事業を起して自立したいと考えている。(もっとも兄弟の中にはまだ親がかりを続けたいという者もいるが)。親は、家が傾いているので今までどおりの仕送りはできないと言いながら、子供の生活について大きな家に住めだの、車を買い替えろだのといった指図だけはうるさい。兄弟全部に一定の生き方を押し付けるのではなく、自分の生き方を決める自由を与えろというのが一国多制度という議論である。

 国土交通省北海道局がジリ貧になるのは、現下の政治、経済情勢からすれば、しようがない。ここで我々は、それを逆手にとって、一歩交代二歩前進という提案をすべきではなかろうか。中央政府で北海道局をなくしたいというのであれば、それも結構である。その代わり、北海道局の権限、財源を北海道に移し、新たな地方政府を作ってほしい。開発局と道庁の二重行政を解消し、地域のニーズに合った予算配分をすれば、多少予算が減っても地域の活性化に資するはずである。

 小泉改革は不動の前提を取り払っているのだから、我々の側も思い切った対抗提案を持たなければならない。

2004.01.16 Friday 22:55

01年10月:迫られる意識改革

 北海道へ来て一七年経ち、そろそろ今までの人生のうち北海道で過ごした時間が最も長くなる。その意味では北海道人という意識を持っているのだが、今でもなじめないことがいくつかある。

 プロ野球のペナントレースの終盤、いくつかのデパートやスーパーでジャイアンツ応援セールというのをしていた。なぜこのチームに縁もゆかりもない店で、応援セールなどするのだろうか不思議だった。北海道には巨人ファンが多いのだろうが、今年くらい初の道産子監督、若松率いるヤクルトを応援するのが地元のよしみというものだろう。広島ファンである筆者の僻目かもしれないが、巨人ファンの多さは北海道民の「寄らば大樹の陰」という意識の表れだと思う。

 仕事柄毎週のように新千歳空港を利用する。この空港は日本一の欠陥空港だと思う。JRの空港駅を降りて搭乗手続カウンターにたどり着くまでに、商店街の雑踏を通りぬけなければならないからだ。最近では通路に商品を並べて狭くなっており、買い物客や商品を運ぶ台車にぶつかりそうになりながら、カウンターへと急ぐ。大きな荷物を持っているときは特に厄介だ。筆者は世界各地の空港を知っているが、これほど乗客不在の空港は見たことがない。この空港の設計は、乗客の円滑な搭乗という空港本来の機能よりも、観光客相手に少しでも金儲けをしようという利益追求を優先させた結果である。目先の利益にこだわるところは、北海道の気質というべきか。

 別に巨人ファンの人たちや空港の土産物屋と喧嘩をしたくてこんなことを書いているわけではない。筆者はこのところ構造改革時代に北海道がどうやって生き残るか、考えている。現政権が唱えている構造改革の中身についてはもちろん疑問も多いが、一つはっきりしているのはもはや国は陰を提供する大樹ではなくなったことである。地域レベルの政策を考える上で、道民の意識改革が大前提となる。多くの道民が当たり前だと思っていることにあえて異を唱えるところから、意識改革は始まる。

 野球にたとえれば、既に出来上がった有名選手を金の力でかき集めるという巨人のチームづくりの発想は、これからの北海道にとってはまったく正反対の方向である。小ぶりではあっても個性のある選手をじっくり鍛え上げ、真に野球を愛するファンを感心させるという哲学こそが、北海道における産業育成や特産品の開発に必要である。また、一見の客に型にはまった北海道名物を売って儲けるのではなく、個性的な商品で常連の客を生み出すことこそが課題である。

 今回の狂牛病騒動を見ても、国の役人に畜産農家や消費者を守る能力がないことは明らかである。自分の安全は自分で守らなければならない時代である。しかし、こういう時代だからこそ、安全、安心を軸に、新たな北海道ブランドを創り出す好機が来たということもできるはずである。定番メニューに満足せず、自分の感覚を研ぎ澄まし、よいもの、面白いものを探すことが危機を好機に変える鍵である。

2004.01.16 Friday 22:54

01年8月:歴史を省みるということ

 この数ヶ月、歴史教科書問題や小泉首相の靖国参拝問題など、日本が戦った戦争をどのように理解すべきかをめぐって大きな議論が続いた。教科書を含め、歴史書とは後世の人間が過去の出来事をその人の関心に沿って取捨選択し、再構成したものである。歴史について議論するときには、その時代に生きた人が何を感じ、考えていたかを直接知ることが必要である。

 たとえば永井荷風の『断腸亭日乗』を読むと、市井人にとって戦争が何を意味したかよくわかる。軍人の専横によって人々の生活は困窮を極める。しかし、荷風が最も憤るのは、軍人支配が「学術文芸を以て無用の長物」となし、「現代日本を以て欧洲中世期の暗黒時代」に戻そうとすることであった。また、滅私だの忠孝だのと国家への貢献を押し付ける風潮の中で「すべて人間の美徳善行を意味する言語文字はその本質を失いて一種の代用語となり終われり」と慨嘆している。さらに日米開戦の直前に、米国と戦うことで得る物があるとすれば、「デモクラシイの真の意義を理解する機会に遭遇すること」と予言している。荷風は政治にはまったく背を向けた文学者であった。それゆえにこそ、権力の愚行を徹頭徹尾冷静に見据えていたのである。

 我々に残されたのは、権力の暴走や愚行をいかに食いとめるかという問いである。戦争中の日本人は従順で、無気力であった。何が起こっても成り行きに任せるだけで、ただ電車の乗り降りに必死になって先を争う民衆を見て、荷風はその心情ほど理解しがたいものはないとも記している。吉田満の『戦艦大和ノ最期』の中に、出撃した大和の艦内で青年士官たちが自らの死にどのような意味を与えるかをめぐって論争する場面がある。ある士官は、日本人を目覚めさせるために死ぬのだと自らを納得させていた。戦いの最中の民衆に覚醒を求めても無理である。しかし、戦後の日本人は、権力の愚行を食いとめるのは自分たちの責任であるという「デモクラシイの意義」に目覚めているのだろうか。

 私が首相による靖国参拝に反対するのは、そのことによって日本人がますます目覚めから遠ざけられると考えるからである。戦争の犠牲者を悼む気持ちは誰しも同じである。しかし、戦争は噴火や台風とは違う。指導者の決定によって始められ、また終えられるものである。犠牲者を悼むことは、彼らに不本意な死を強いた者の罪を記憶することと一体の行為であるべきだ。靖国神社には極めて多くの人間を非業の死に追いやった指導者が神として祀られている。犠牲者と指導者を渾然一体として悼むということは、結果として指導者の愚行を免罪することにつながる。罪の大きさを明らかにすることなくして、罪を許すことはありえないのである。

 一三日夕刊で、鷲田小弥太氏が靖国は「戦意・国威高揚を図る荒ぶる魂のすみかではないと」述べているのを見て、唖然とした。無理やり日本人にされ、肉親を奪われたあげく、その霊を勝手に靖国に祀られている韓国人遺族の無念が彼には分からないのであろうか。特定の儀礼や態度を日本人伝統の習俗と偽り、押し付けるところに靖国の本質がある。靖国問題に関する近隣諸国からの反発を内政干渉として退けることは、日本人の傲慢と自己中心主義の現れである。

2004.01.16 Friday 22:52

01年6月:小泉政治をどう理解すべきか

 小泉政権に対する驚異的な支持率はいまだに衰えを見せない。確かにこの政権は、今までの政治の常識を覆そうとしている。問題は、政策の中身について小泉政治は何が新しいのかという点である。これを支持するにせよ、批判するにせよ、イメージで小泉政治を評価するのは終わりにすべきである。

 小泉政治の新しさを理解するためには、まず古い自民党政治、とりわけ自民党の中枢を支配してきた経世会(現橋本派)による政治とは何だったのかを明らかにしておかなければならない。経世会政治を一言で表現すれば、見栄えはよくないが、親切で弱者に優しく、安心できる政治ということになる。経世会は総合病院とも言われ、様々な地域や業界の要望に応じて、予算配分、税金の免除などの保護を行ってきた。しかし、親切な政治は、決して善意の活動ではなく、受益者からの献金や賄賂を対価とするものであり、しばしば政治腐敗の大事件を引き起こした。また、経済面では、競争力を失った企業の延命、無駄な公共事業に代表される予算配分の非効率などの弊害が伴った。

 財政再建と不良債権処理が待ったなしの課題となった今、従来のような親切政治を維持することはできなくなった。経済成長の成果を広く薄く配分するのではなく、成長をもたらす牽引車の部分を優遇しなければならない。そのために、成功者に報酬を与える税制に変えることや、地方優遇の財政システムをやめて、都市に予算配分を集中することが必要となる。これが小泉ブレーンの考える政策理念である。

 こうした理念は、経済界や官僚機構の中枢部も支持している。道路特定財源の見直しや地方交付税の減額など、財務省の宿願が構造改革の柱になっている点からも、そうした連携はうかがえる。まさに、小泉政権は利権政治や予算ばらまきで水ぶくれした保守政治をシェイプアップするという役割を担おうとしているのである。そうした政策転換を組織の次元に反映したのが、小泉首相による橋本派に対する攻勢である。道路財源問題に加えて、郵政事業民営化など橋本派の利権をめがけた攻撃は、政策面における改革という大義名分と直結している。

 日本の政治のためには、小泉政権の下でいったん腐敗した利権政治の仕組みを解体することが望ましい。仮に小泉首相が自民党の延命のための新しい表紙として使い捨てにされるならば、あるいは首相自身が自民党の延命を優先させて構造改革をあいまいなシンボルのままにしておくならば、現在の高い支持とは正反対に、厳しい批判が吹き荒れるに違いない。ただし、破壊の後に来る創造の段階では、現在の小泉ブレーンが考えるような強者優先の改革に対する対案を主張しなければならない。小泉政権に対処することは、とりわけ地方にとって、そのように周到な知恵と戦略を必要とする作業である。

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